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 中島一憲「渡来人文明開化史観の虚構」 
            (世界戦略情報「みち」平成26年(2674)9月1日第410号) 

●弥生時代の始まりが紀元前一〇世紀にまで遡るとすると、わが日本列島における国家形成のあり方にも、大きく影響してくる。
 朝鮮半島経由で大陸から渡来した人々が水田稲作文化をもたらし弥生時代が始まったとする従来の教科書的常識は単純明快で誰にでも分かりやすかったのだが、この常識が変更を余儀なくされているのである。
 水田稲作をもたらした渡来人の大量流入が列島における国家形成を急速に促したとする常識もまた、同じように今や変改を余儀なくされている。
 すなわち、水田稲作という新しい生産方式が従来の焼畑式縄文農耕の自然な発展であったように、列島の各地に見られるムラから小国家の形成においても、大陸・半島からの渡来人の大量流入の痕跡が発見されていない以上、従来はほぼ六〇〇年と考えられてきた弥生時代がその倍以上の一三〇〇年間続き、その間に日本列島内部で自然的発展の結果、小国家が誕生した、と考えざるを得ないのである。
 もちろん、大陸や半島との交流・影響がさまざまな面においてあったことは間違いない。ただ、日本における新時代や新文明の始まりをすべて大陸・半島からの影響と考える知的怠慢は、もはや事実の前に通用しなくなったと見るべきである。これからは、列島の内部の情勢を充分に踏まえた上での、事実に基づく見解の是々非々こそが問われなければならない。
●人が死んだとき如何にして葬るかは人間の精神文化を測る大きな目安となる。また、その埋葬方法つまり墳墓の造り方は容易には変化せず、伝統を重んじて旧套墨守(きゅうとうぼくしゅ)の傾向が強い。したがって、ある地域の墓制を見れば、その文化の実態と系統を位置づけることも可能なのである。特に古代においては、古代エジプトのピラミッドを引き合いに出すまでもなく、洋の東西を問わず支配者のための墓造りが地域・国家経綸に多大なる意味をもち、かつ負担を強いたことは明らかである。
 しかも、支配者の墓は多大の労力を傾けて築造され、また盗掘・損壊を防ぐさまざまな工夫が施されたがゆえに、埋葬当時のままに発掘されることも稀ではなく、墓が築造された時代の様子を如実に伝えてくれる歴史的事実そのものとなる場合もある。ただし、その歴史的事実をどう解釈するかはまた別の問題である。
 その意味で、日本独自の墳墓形式とされる前方後円墳がわが列島における国家形成に密接な関連を持っていることは確かである。だが、調べてみると、前方後円墳は弥生時代以来の列島各地の墳墓の特徴を引きつぎ、それを畿内を中心に統合統一する形式で出現したことが、ごく最近になって明らかになった。つまり、列島における王権形成の指標とも見なされる大型墳墓=前方後円墳についても、渡来勢力による軍事的征服の痕跡はまったくなく、前代以来の伝統が断絶することなく発展的に継承されているのである。
 前方後円墳に統合統一されていく各地の古墳形式の中で、私は特に出雲・吉備・越地域においてのみ築造された「四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)」に注目してきたのだが、まだ学習途上で意見を言えるような段階ではない。これは方形墳丘の四隅に小円丘を付けた墳墓形式で、弥生中期以降に日本海側の山陰出雲を中心に吉備北部と古代高志国の北陸地方(福井・石川・富山)で営まれ、現在までに約九〇基が発見されている。
●この四隅突出型墳丘墓を調べる過程で、貴重な研究に出会った。それは中島一憲(なかじまいっけん)氏の著書『倭の古王国と邪馬台国問題』(上下、文芸社、二〇〇年八月刊)という著作である。余り多くない四隅突出墳丘墓の研究を探しているうちに見つけた本で、まず上下分冊になった下巻だけを入手したのであったが、何と、その副題に「弥生通史が解明する『渡来人による文明開化史観』の虚構」とあるではないか!
 ただ、やや長たらしいので、それを「渡来人文明開化史観の虚構」と約めてみた。
 これまで本欄で縷々批判めいたことを述べてきた「弥生水田稲作渡来人将来説」を含め、弥生時代から古墳時代にかけてのわが列島における国家形成を渡来人のもたらした文明の所産とする従来の常識に対して、中島一憲氏は一貫して批判している。その主張が、副題の「弥生通史が解明する『渡来人による文明開化史観』の虚構」によく表わされているのである。
 この副題にあるように、従来久しく教科書的常識とされてきた「渡来人のもたらした文明により弥生時代が始まり、古墳時代を通じた国家形成が促された」とする歴史観に真っ向から挑戦するのが著者中島一憲氏の全編を貫く基本姿勢である。それは縄文時代を狩猟採集段階の未開社会とみなす大勢の常識に疑問を持ち、具に検証した事実を踏まえて、「縄文時代とは成熟した文明社会であった」という独自の洞察に支えられているのである。
 そうした洞察を端的に表わす、快哉を叫びたくなるような痛快な指摘が、下巻の中程にある。引用としては少々長いのだが、中島一憲氏の主張がよく纏まっているので紹介したい。

 一万二千年前からはじまるといわれる「縄文時代」は独特の文様をもつ土器が大量に使用された時代であることからこのように名づけられたが、金属文明以前の段階という意味では、世界史的に共通する「新石器時代」と呼ぶべきであり、むしろ技術文化史的にみて磨製石器の使用はユーラシア大陸の「新石器時代」にさきがけていたのである。
 それにもかかわらず金属器の使用がユーラシア大陸から二千年ほどおくれるのは、金属発見の端緒となった隕鉄(いんてつ)という天然素材が、雨が多くそのうえ酸性土壌の列島ではきわめてとぼしかったという気候風土や地質環境のためであり、技術水準の彼我の優劣を意味するものではない。
 列島の縄文時代の風土環境は高温多湿で、それに太古から現在にいたるまで火山活動の活発な地勢であり、金属の発見よりむしろ木材をはじめ河川や海底の堆積層から得られる玉石類や良質の粘土などが、生産資源として重視されたことが、金属器の移入にさきだつ縄文文明の長期にわたる発展と繁栄をささえたと思うのである。
 このようにして精神文明を象徴する造形素材として、列島では縄文以来の木材のほかに、伝統的に玉石類と粘土をもちいる技術が発展し、縄文晩期から当初は武器の素材として鉄と銅が移入されそれにくわわった。
 弥生の精神文化の遺物として祭祀具を中心に玉製品や土製品が出土するのは、このような縄文精神文化一万年の伝統を継承したものであり、けっして弥生初期にとつじょ大量に渡来した「渡来人」による「文明開化」の結果などではない。
 これまでもくりかえしのべてきたように、すでに一万年前(現在からは二万数千年前になる─天童註)から日本海をわたってシベリアに黒曜石を移出した実績のある倭人は、そのすぐれた航海技術をもちいて縄文時代をつうじて大陸と交易している。
「渡来人」に教化されなくても、列島内の港市国家の競争と対立が激化し、戦争準備の必要が高まった縄文晩期には、こうしてその必要性に対して実用性のある鉄や銅の大量移入にふみこむのである。
 弥生初期の「渡来人による文明開化史観」にはこのような事実に根ざした文化の連続性や歴史的必然性に対する洞察(どうさつ)がみじんもみられない。(同書二八〇~二八一頁)

「渡来人による文明開化史観」とは、まさにいみじくも名づけたものである。中島氏が言うように、大陸や半島から倭人が文物を移入したのは独自の必要性からであって、その実態はわが文明に欠けているが必要とされるものだけを自発的、選択的に移入したのである。というのも、列島の風土に即して縄文文明を成熟させ享受していた倭人たちには、改めて渡来人に教化してもらう必要など、まったくなかったのだ。

※浅薄な知識しかないので、時事問題には出来るだけ触れないように戒めているが、次の二点だけは特に注目しておきたい。
 第一は、今年一一月に予定されている露国プーチン大統領の訪日に関し、安倍首相が森喜朗元首相に親書を託し改めて訪日を促すことになったことである。これは米国の神経を逆撫ですること必至だが、戦後の対米従属外交を大転換させる契機になるかもしれない快挙である。強く支持・賛同したい。
 もう一つは、八月二七日に開かれた日本海連合の会合で泉田新潟県知事が日本海メタンハイドレートを燃料にした実験的発電炉を県企業局主導で産業振興として取り組むと推進者青山繁晴氏に明言したことである。資源大国日本を実証する試みと高く評価したい。