みょうがの旅    索引 

                      

 信濃一六牧筆頭望月牧考 
    (世界戦略情報「みち」平成26年(2674)9月15日第411号) 

●源平の争いにおける源氏の内ゲバで木曽義仲を追討することになった頼朝軍が宇治川に達したとき、名馬生月(いけづき)に騎乗した佐々木高綱と磨墨(するすみ)に騎乗した梶原景時の先陣争いは余りにも有名だが、馬に跨がった武将が歩兵を率いて戦闘に望むという風景は古墳時代からつい先ごろ日清日露戦役まで、久しくわが日本列島における典型的な戦闘のあり方だった。
 平将門が暴れ馬を繋ぎ止め(飼い馴らし)関東の原野を席捲して新皇を名乗るほどの勢力を蓄えたのも、甲斐信濃で武田信玄が戦国の世に騎馬軍団を軸に近隣を次々併合して大いに武威を振るったのも、古来より武蔵常陸下総や甲斐信濃に馬の公営放牧場(御牧(みまき)、馬牧、または勅旨牧(ちょくしまき)などと称した)、すなわち官牧が設けられたことに端を発する。
 一〇世紀初めの記録である延喜式によれば、日本全国に六〇余の御牧が置かれたとあるが、このうち信濃に一六、甲斐に三(穂坂牧、真衣野牧、柏前牧)、上野に九、武蔵に四(石川牧、小川牧、由衣牧、立野牧、後に阿久原牧と小野牧を増設して六となる)という牧数を数えている。
 また、毎年八月には「駒牽(こまひき)」という貢馬牽進の儀式があり、毎年三〇〇疋(信濃八〇疋、甲斐六〇疋、上野五〇疋、武蔵一一〇疋)の馬が朝廷に献上されたとの記録もある。武蔵国からの献上馬数が多いのは、常陸や下総よりの献上馬をも含んでいると考えられる。
 官牧の管理に当たっては、各国毎に「牧監(もくげん)」(元々は監牧)と呼ばれる職責が置かれ、中央派遣または地方採用の在庁官人の中から選ばれた者が任じたが、馬疋が兵器体系の重要な一角を為したことに照らすと、官牧管理人の牧監が大きな勢力を蓄えるのは自然の流れである。
 全国一の貢納馬を誇った武蔵国では官牧の規模が大きかったためか、一国一人の牧監ではなく、牧毎に監督官が置かれたが、これを「別当(べっとう)」と称した。平将門の父良将も将門自身もこの官牧管理人たる別当職に任じた権威を背景に力を蓄え、馬具刀剣類の原料となる鉄生産のため盛んに野蹈鞴製鉄なども行なって実力を増したのである。
●ところで、信濃に一六ヶ所置かれた「信濃一六牧」とは、高井郡に大室牧と高井牧の二牧、伊那郡に笠原牧と平井手牧、宮処牧の三牧、小県郡に新張(新治)牧の一牧、諏訪郡に塩原牧と岡屋牧、山鹿牧の三牧、佐久郡に望月牧と長倉牧、塩野牧の三牧、筑摩郡に埴原牧と大野牧の二牧、安曇郡に猪鹿牧の一牧、設置郡不詳の萩倉牧一牧という内容であるが、古代信濃一六牧を監督した牧監の官庁は筑摩郡埴原(はいばら)牧に置かれた。現在の長野県松本市中山と内田の周辺地区である。
 一方、信濃一六牧の筆頭で最大規模を誇ったのは「望月牧」だった。標高二三五〇米の蓼科山の北麓が北と東を千曲川に阻まれ西を鹿曲川(かくまがわ)に限られた丘陵に御牧が営まれたのである。現在の行政区画でいえば、東御市(とうみし)と小諸市、佐久市に跨がる広大な地域を占めるが、今でも「御牧原(みまきがはら)台地」と呼ばれ、古代官牧すなわち御牧の地であったことを偲ばせている。
 御牧原台地の南には布施川(ふせがわ)が流れているが、この布施川に沿って古代主要官道の一つ、東山道が通っており、後世の中山道と重なっている。
 東西南北を千曲川と角間川、布施川という自然の障碍に阻まれて放牧には絶好の地形であるが、それでも馬が逃げ出すのを防ぐために、柵や土塁、溝なども造成してあった。その遺構たる「野馬除(のまよけ)」が数キロにわたり残って、いま東御市の指定文化財となっている。
 そもそも、この信濃最大の御牧が「望月牧」と名づけられた所以は、先に述べた毎年八月の「駒牽」つまり貢馬牽進の儀式が八月一五日の望月の日に行なわれたからである。また、この日貢進された馬は「望月の駒」と呼ばれた。貢馬牽進日の雅名をもって名前とした望月牧は信濃一六牧のみならず全国御牧の代表格を誇ったとも言えよう。
 駒牽の儀に因んで紀貫之が、

 逢坂の関の清水に影見えて
  今や引くらん望月の駒

と詠んだのも、貢進馬一般を指したのではなく、特に信濃佐久郡望月牧からの貢進馬を意味したのかも知れない。
●さて、古代望月牧の南側辺縁を為す東山道すなわち後の中山道の街道沿いには大伴神社や駒形神社、髙良(こうら)社が祀られている。このうち、髙良社について佐久市の公式サイトには次のような説明がある(縦書きに際し表記一部を改変)。

 中山道沿いの八幡(はちまん)神社境内にある高良社は、八幡神社の旧本殿で、天明三年(一七八三年)に新たな本殿が建立された際に現在地に移されたものです。
 高良社は、「高麗社(こうらいしゃ)」の転訛(てんか)したもので、朝鮮半島から日本へ渡ってきた「渡来人」に関わる社であるという説がありますが、定かではありません。
 現在の高良社は、延徳三年(一四九一年)に望月城主の滋野遠江守(しげのとおとおみのかみ)光(みつ)重(しげ)らによって建立されたものであり、八幡・蓬田(よもぎだ)・桑山大域の鎮守として広く信仰されていました。
 社殿の構造は、三間社流造、こけら葺(ぶき)で、室町時代の姿を現在に伝えています。
 社殿は、昭和一七年(一九四二年)に国宝に指定され、昭和二五年(一九五〇年)には国の重要文化財に指定されています。

 髙良社が高麗社に由来し、神社名が高麗社の転訛であり、朝鮮半島から日本へ渡ってきた「渡来人」に関わる社との説を紹介しているが、教科書的常識に安易には与せず、「定かではありません」として公平を保っている。
 大田南畝の筆名「四方赤良」を以て信濃の郷土史を精力的に考察している「長野県の歴史 国宝・重要文化財(建物)」と名づけたサイトの中に「佐久地方の歴史」という項目があるが、そこでは、佐久平に人々が住みはじめたのは弥生時代の中ごろだという。

「弥生時代の謎の巻一」(弥生時代)
 ……弥生時代中頃を過ぎてくると、人々の生活の場が平地に移り、佐久平に畑作文化が芽生えるようになってきました。佐久平には三つの大きな集落群ができ、志賀川の北側に和田上遺跡(現在の種畜牧場周辺)、千曲川の南側に西裏・北裏遺跡(伴野下平)、湯川下流域に北西ノ久保遺跡(信州短期大学付近)があり、これらの集落群を中心とした小規模な集落も点在していました。……
 それらの集落は、弥生時代後期になると最盛期を迎えます。この頃の住居は地面を人の背丈程掘り下げたところを床として、柱を四本建てた半地下竪穴式住居が殆どでした。食料は、小麦、大麦ばかりを食していたようで、米、豆、山葡萄は副食か御馳走であったようです。古墳時代になると蕎麦、粟、稗などが加わってきます。
 しかし、古墳時代に入るとこれらの大規模集落は忽然と姿を消し、5軒程度の小集落が点在するに過ぎなくなります。その原因は今でも謎とされています。浅間山の噴火によるものか、外部の侵略によるものなのか不明です。
「佐久平の復活の巻二」(古墳時代)
 古墳時代前期の異常な集落の減少から一〇〇年以上が経った頃、次第に集落が増え始めるようになりました。過去に集落があった場所に再び造られることもありましたが、空白地帯でも形成されていきます。
 大化改新の頃になると、突如として志賀川の北側(樋村遺跡、現在の平賀バイパス付近)や長土呂に、大規模な集落がみられ、佐久平全体が自然増加ではありえないような人口の増加をみます。古墳も四〇〇基以上造られるようになり、その殆どの規模が一〇M程度なので村落の家父長単位の墓であると言われています。
 古墳の副葬品には、武器、武具、馬具、朝鮮半島のメッキ・金細工などが埋葬されています。また、大坂で焼かれた須恵器がこの頃の集落から発見されており、不自然な人口増加と関連付けて、六〇〇年代に戦乱状態であった朝鮮半島や近畿地方からの移住者ではないかと言われています。馬具の埋葬については、この地域にあった望月牧、塩野牧、長倉牧の官営牧場の経営に携わった有力者で、やがてこの者達が力をつけていくようになります。

 古墳時代前期に異常な集落の減少を経て、古墳時代中期にはこれまた自然増加ではあり得ないような人口の増加を見たという。四方赤良氏はその原因を半島もしくは畿内からの移住者ではないかとする説に傾いているが、慎重に検討すべき課題である。
 ともあれ、信濃一六牧全体の牧監は滋野氏が務めたとされている。先に挙げたように、延徳三年に髙良社を建立した望月城主滋野光重はその一族である。この信濃滋野氏から依田、望月、海野、芦田、真田などの戦国武将が分流したと言われる。いずれも武田騎馬軍団の中核を為した氏族である。