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 信濃国佐久郡式内大伴神社考 
       (世界戦略情報「みち」平成26年(2674)10月1日第412号) 

●信濃の望月牧の西辺を劃する鹿曲川(かくまがわ)が中山道と交差する所に後世営まれたのが望月宿である。この望月宿に式内社大伴神社(長野県佐久市望月字御桐谷(みとや)二二七番地)がある。東側の鹿曲川と並行する中山道(国道一六六号線)沿い、望月宿入口交差点と御桐谷交差点との中ほど、望月歴史民俗資料館の西北に位置する。元は現在鎮座地の北へ数百メートル、鹿曲川を渡った望月古宮(こみや)の地区にあったという。いずれにしても、古代の望月牧の南隅に鎮座していたのである。
 御祭神は天忍日(おしひ)命、天道根(みちね)命、月読命の三柱である。興味深いのは、全国の神社を訪れ、その探訪記と写真をネットに掲載している「玄松子の記憶」(http://www.genbu.net/)が大伴神社の社伝として、

 祭神・天忍日命は大伴氏の祖神で、大伴武日命とも呼ばれている。祭神が馬に乗ってこの地へ来られ、鎮座。乗って来た馬を種馬として駒の改良繁殖をはかリ、この地は、多数の馬を産する地となって、信濃国最大の望月牧へと発展したという。

と紹介していることだ。
 御祭神が誰であるのか、具体的には説明されていないが、天忍日命か大伴武日命のどちらかである。つまりこれは、望月牧を開発運営した望月氏が、大伴氏もしくは大伴氏末裔であることを物語っているのだ。
 天忍日命は大伴氏祖神と考えられているから、望月牧の発生には大伴氏、もしくは大伴氏末裔の関与があったことを窺わせるが、その痕跡は後世に残されていないようである。
 古事記によると、天忍日命は天孫降臨に際して天久米命と共に番能邇邇藝(ほのににぎ)命に供奉先導して竺紫(つくし)の日向の高千穂(たかちほ)之(の)久士布流多氣(くじふるたけ)に天降った。天忍日命の古事記注に「此は大伴連等(おおとものむらじら)が祖(おや)」とある。日本書紀同段の第四の一書でも登場する。記紀には天忍日命の出自を記していないが、古語拾遺や大伴氏系図では高皇産霊(たかみむすび)尊の子としている。神武東征に従って活躍した道臣命(みちのおみ)は天忍日命の曾孫とする。
 天忍日命を御祭神として祀る神社は稀であり、降幡(ふるはた)神社(大坂府南河内郡河南町、明治末年に一須賀神社に合祀された)、油日(あぶらひ)神社(滋賀県甲賀市)、野保佐(やほさ)神社(長崎県壱岐市)など数社に過ぎない。壱岐の野保佐神社には大久米命も祀られている。
 大伴氏祖神を祀る大伴神社がなぜに望月牧にあるのか、謎である。管見に係る限りでは、納得できる説明は見当たらなかった。佐久市役所南方の千曲川を越えた野沢地区にも大伴神社があるらしいが、まだ確認できていない。
●ただ、先に挙げた社伝に「天忍日命は大伴武日命とも呼ばれている」とあることと、同じく「玄松子の記憶」に次のような『式内社調査報告』の説明を引いていることが、一つのヒントを与えてくれる。

 社伝によれば、景行天皇四○年の鎮座と言い伝えられている。大宝年間(七○一~四)諸国に牧場(官牧)が設定され、千曲川・鹿曲川に境した七○○メートル乃至 八○○メートルの高原台地に牧草に適した草が繁茂し、その広さ三、○○○余町歩、これが朝廷直轄の牧場となり、所謂望月牧である。これを維持、管理する牧監が即ち早くこの地に土着して一大豪族となった大伴氏を祖とする望月氏が朝庭より任命され、長倉牧・塩野牧の長官をも望月氏が兼任した。

 つまり、望月牧の牧監に任じた望月氏が大伴氏末裔を自認していた時代があったのだ。
 景行天皇四〇年の鎮座というのも、また天忍日命と大伴武日命を同体としているのも、大伴氏末裔を名乗らんがための伝承である。天忍日命と大伴武日命は活躍の時代が違うし、同じではない。
 景行天皇四〇年の鎮座という社伝はむしろ祭神に入っていない大伴武日命の事跡に関わっている。古事記においては吉備臣祖の御鉏友耳武日子(みすきともみみたけひこ)の一人しか登場しないが、日本書紀では景行天皇四〇年冬一〇月二日に日本武尊が東夷征伐に出発するに際して、吉備武彦と共に大伴武日連も随行するからである。
 日高見国をめぐって蝦夷を平らげ、常陸を過ぎ甲斐国酒折宮で夜を迎えたとき、日本武尊は侍者に「にいばり、つくばをすぎて、いくよかねつる」と訊ねられた。侍者たちが答えられないでいると、

 時に秉燭人(ひともしびと)有り。王歌(みうた)の末に続けて、歌して曰さく、
「日日並(かがな)べて 夜(よ)には九夜(ここのよ) 日(ひ)には十日(とをか)を」
即ち秉燭人の聡(さとき)を美(ほ)めたまひて、敦(あつ)く賞みたまふ。則ち是の宮に居しまして、靫部(ゆきべ)を以て大伴連の遠祖武日に賜ふ。

とあって、秉燭人の当意即妙の返歌に感心され、大伴連遠祖武日に靭部を賜わったことが語られている。
 つまり、この秉燭人とは大伴武日命であったのだ。古事記ではもともと大伴武日命が日本武尊に随行していないので、秉燭人は「御火焼(みひたき)の老人(おきな)」となっている。この老人が返歌をして賞せられ、「東国造」(あづまのくにのみやつこ)に任じられることになった。甲斐酒折宮の出来事として、古事記と日本書紀ではまったく異なる伝承が記されている。
 大伴神社社伝に言う「景行天皇四〇年鎮座」とは、大伴武日命が日本武尊に靭部を与えられた誇らしい事跡を暗に語っているのである。
●ところが、後世戦国武将として活躍する望月氏は大伴氏末裔を称していない。滋野(しげの)氏の分かれだと言う。その滋野氏にも神別と皇別の二流があって、ややこしいのであるが、信濃望月氏は神別滋野氏流を称している。その証が大伴神社祭神に滋野氏遠祖である天道根命が入っていることである。
 つまり、望月氏はもと大伴氏末裔であった時代があり、それがある時点で滋野氏末裔に入れ替わったと考えられる。ただ、その入れ替わりは平和裡に行なわれたはずである。というのも、大伴神社の御祭神に系統の異なる天忍日命と天道根命とが仲良く並んで祀られているからだ。
 ここがわが国のユニークなところで、たとえ担い手が代わっても前の時代の伝統をことごとく抹消殲滅するのではなく、出来るだけ平和裡に継承しようとする傾向がさまざまな面で顕著に見られる。血統(ブラッド)も大切だが、ある職掌に決定的に重要な霊能や職能を重んじて継承するという遺伝方式がわが国では重んじられた。つまり血統と霊統の絶妙なバランス感覚が日本人に備わっているのだと言えよう。
 大伴神社に祀られるもう一柱の天道根命は古事記と日本書紀には登場しない。『先代旧事本紀』の「天神本紀」によれば、高天原から葦原中国へ降臨することになった饒速日尊に護衛として随行した三二神のうちの一柱である。また、「神代本紀」「国造本紀」では、神皇産霊尊の子である天御食持命の次(弟または子孫)で、川瀬(かわせ)造等の祖とするが、『新撰姓氏録』では神魂命=高皇産霊尊の五世の孫であって、滋野宿禰(右京神別下天神部)、大坂直(大和国神別天神部)、紀直(河内国神別天神部)、大村直田連(おおむらのあたいたのむらじ)(河内国神別天神部)、川瀬造(和泉国神別天神部)の祖となっている。
 天道根命は第一次天孫降臨と言うべき饒速日尊に随行したばかりか、神武東征にも登場する。すなわち、「国造本紀」や紀伊国造家が伝える『国造次第』では、日像鏡(日前大神の御神体)と日矛(国懸大神の御神体)とを奉載して神武天皇の東征の成功を祈願し、初代紀伊国造に任じられたとある。
 滋野氏は元々楢原(ならはら)造を称したが、天平勝宝二年(七五〇)駿河守として任国に赴いた楢原東人(ならはらのあずまひと)が駿河国廬原(いおはら)郡田子浦(たごのうら)で黄金を発見して朝廷に献上した功を、孝謙天皇に賞されて伊蘇志臣(いそしのおみ)(よく勤(いそ)しむという意味)を賜わり、さらに延暦一七年(七九八)には伊蘇志家訳(いえおさ)が滋野宿禰(しげののすくね)と賜姓されて、姓に宿禰をもつ滋野氏となり、そして遂には弘仁一四年(八二三)に姓の最高位である朝臣を家訳とその子貞主(さだぬし)が賜わって、滋野朝臣(しげののあそみ)となった。
 滋野貞主(七八二~八五二)は当時には珍しい長身で六尺二寸(約一八八センチ)もあったという。巨漢にも拘わらず生まれつき思いやりのある情け深い性格で、度量も広く、人々の能力を見出しては推挙して引き上げることに努め、また言葉にも人を傷つけないように優しく話したという。こういう性格まで伝わっていること自体、稀有の人徳を備えていた証拠である。
 同じく家訳の子で、貞主の弟にある滋野貞雄(さだを)(七九五~八六〇)も兄には劣るが六尺(約一八〇センチ)の巨漢で、兄と同じく仁慈に溢れ、また容姿端麗で振る舞いも典雅だったという。貞雄の孫滋野恒蔭(しげののつねかげ)が貞観一〇年(八六八)に信濃介に任じられ、続いて貞主の次男善根(よしね)も貞観一二年に信濃守に任ぜられて、ここに神別滋野氏と信濃国との関係が初めて生じるのである。