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 信濃国小県郡嬢里大伴連忍勝の話 
         (世界戦略情報「みち」平成26年(2674)10月15日第413号) 

●滋野氏の信濃入りは平安時代の貞観年中で、九世紀の半ばである。信濃国の現地には大伴氏との関連を証する痕跡が佐久市望月字御桐谷(おとうや)所在の大伴神社と、佐久市野沢の城山公園内にある大伴神社くらいしか残されていない。両社は直線距離で約一〇キロほど離れているが、延喜式に列する佐久郡三座、すなわち

長倉(ながくら)神社 …… 長野県北佐久郡軽井沢町字長倉
英田(えた)神社 ………… 佐久市安原字英田沢)
大伴(おおとも)神社 …… ?

のうちの大伴神社に擬されているのは望月の大伴神社である。
 もっとも、両社の中間部の千曲川の西岸には大伴氏との関連を偲ばせる「伴野」なる地名もあり、望月の大伴神社が延喜式内社であるかどうか決定的な決め手はない。
 いずれにしても、古代豪族大伴氏の末裔が信濃国佐久郡一帯に進出していたことは、全国に数少ない大伴氏祖神天忍日命を祀る大伴神社がここに鎮座していることから、間違いあるまい。
 さらに、大伴氏は佐久郡ばかりではなく、西隣の小県郡(ちいさがた)さらには八ヶ岳を越えた諏訪郡の先の伊那郡にまで拡がって盤踞していた可能性がある。
 二十巻本『倭名類聚抄』の第一二巻「国郡部」は後世の増補とされながらも、平安時代の郡名と郷名を全国的に網羅している点で、この上なく貴重な史料であるが、その信濃国伊那郡には郷名として輔衆(吉沢考兼「信濃地名考」によれば、ふもろ、ほむら)郷、小村(こむら)郷、麻績(おみ)郷、福智(ふくち)郷とともに伴野(ともの)郷が挙げられている(「流布本」による。「高山寺本」には輔衆郷を載せず)。伴野は大伴野に通じ、大伴(伴)氏との繋がりが予想される。
 小県郡に大伴氏が勢力を張っていたことは『日本霊異記』下巻第二十三に信濃国小県郡嬢里(おみなのさと)の人として大伴連忍勝が登場し、「一族の者(もちろん、大伴氏同族である)たちと力を合わせ村に堂宇を建て一族の氏寺を造った」とあることによって証拠とすることができる。
 『日本霊異記』の伝える話が幾分かの事実を伝えているとすると、大伴氏一族は信濃小県郡の地に氏寺を建立できるほどに勢力を伸張していたことになる。
 大伴忍勝を主人公とする話は「寺の物をみだりに借り、また『大般若経』を書き写す願を立てて、この世で善悪の報いを受けた話」と題されているが、宝亀五年(七七四)春三月に起きた、と妙に詳しい具体的な年月まで付いている。
●ファンタジックな冥界物語でもあるこの話を掻い摘まんで言うと、こんな感じである。

 大伴連忍勝は宝亀五年(七七四)春三月に思いがけず人に中傷され、堂の信徒(これも大伴氏であろう)の者に迫害を受けて死んだ。身内の者たちは相談して「殺した者を殺人罪で裁いてもらおう」と衆議一決、死体を火葬にせず仮埋葬して祭っておいた。すると五日後に忍勝が蘇って言う、冥界に行って、また戻ってきたのだと。
 五人の使者に連れられて冥界の大王に会い、それから煮えたぎる大釜の中に投げ入れられたが、あら不思議、釜は瞬時に冷却して四つに割れた。三人の僧が出てきて、「そなたは腹を立てて家を出て、仏道を修行した。この善い行ないはしているが、住んでいたお堂の物品を勝手にたくさん浪費した。そのために身を滅ぼしたのだ。これから帰って『大般若経』を書写するという願を果たし、同時に浪費したお堂の物品を償わねばならない」と教えてくれた。それから解放されて生き返ったのだった。

 善行と悪業の報いが必ず起きることを唱導する『日本現報善悪霊異記』にまさに恰好の話であるが、末尾に作者の薬師寺景戒が付け加えた教訓は聊か異様の感を否めない。
 景戒は、本誌で安西稿が警告するような高利も真っ青という、日歩一〇〇円、つまり一日毎に倍になる究極の高金利を持ち出して、無断で寺の銭を借り出してはいけない、と戒めているからだ。

 『大般若経』に「だいたい、銭一文を一日二倍の利子にすると、二十日後には一百七十四万三貫九百六十八文になるのである。だから、たとえ一文であっても、無断で借り出してはいけない」と書いてあるのは、このことを言うのである。

 本当に『大般若経』にこんな話が載っているかどうか疑わしいが、天文学的数学に長けたインド人が書いたのだから、実際に書いてあることなのかも知れない。また景戒が『日本霊異記』を纏めた平安時代初期に貨幣経済の癌である利子の話がどれほど説得力を持ったのかも今は問わないことにする。
●問題は、信濃小県郡の大伴氏の首長だったと思われる大伴連忍勝の様子が『日本霊異記』下巻第二十三に活写されているところにある。
 ウェブ版百科事典ウィキペディアが『日本霊異記を読む』(小峰和明・篠川賢編、吉川弘文館、二〇〇四年)に所収の加藤謙吉論文「聞く所に従ひて口伝を選び……──古代交通路と景戒の足跡」を引用しつつ、次のように解説しているのは、大いに示唆に富んでいる。

 『霊異記』の説話は、行基とその朋党が民間布教と社会事業の実践のため遍歴した地域と重複する所が少なくない。また、遠国の説話には紀伊氏・大伴氏一族のかつての勢力圏や吉士氏の勢力圏の紀伊・大阪湾沿岸、ならびに二次入植地の東国と結び付くものが認められる。

 すなわち、薬師寺景戒が紛れもなく行基ネットワークの一員であったことを控え目に述べたものである。それは同時に、東は上総から西は肥後まで日本全国に及ぶ一一六の説話から成るこの説話集が、行基ネットワークによる全国規模の情報蒐集活動の産物であったことを物語るのである。
 国家に弾圧された私度僧集団の棟梁だったのが行基である。大化二年公布の薄葬令によって古墳築造という永年の国家的公共事業が廃止されるに至ったのだが、これに伴って古墳築造に従っていた大量の土師氏集団が失職を余儀なくされる。行基は官営公共事業を失ったこの土師氏集団を率いて、河川修築や架橋工事などの公共工事を民間で勝手に進めていたが、東大寺建立という国家事業に協力を要請されるや、本邦初の大僧正に任じられて大いに尽力した。その行基を敬仰したのはひとり土師氏集団のみならず、紀伊氏や大伴氏らもまた行基ネットワークの一翼を担っていたことを上の解説は示唆している。
 その端的な一例が、信濃国小県郡嬢里大伴連忍勝の蘇生物語だった。
 落合莞爾氏のいう大塔宮護良親王配下の「伏見宮ネットワーク」とは具体的には叡尊・忍性を中核とする西大寺あるいは極楽寺ネットワークの別名であり、その先蹤が行基集団なのである。時代によってその中核拠点寺院が交替するのは常であり、幕末期には勧修寺が代名詞となったこともある。
●天平年間行基開基を謳う寺院は景戒のカバーした範囲を超えて、それこそ日本全国に及んでいるが、それは何も行基自身が日本全国に寺を開いて回ったことを意味するのではなく、行基を信仰的象徴とする技術者集団が全国的に遊行遍歴しながら井戸を掘削したり温泉を掘ったり、寺院を建てて歩いたことを分かりやすく語ったものなのである。
 そもそも「寺を建てる」ということを、ただに仏教信仰の熱意の表われとのみ考えてはならない。後世になると、寺院が担っていたさまざまな機能を別の組織が分担独立して行ったから、寺とは坊さんに葬式を頼みに行くところと考えるのが今は普通で、かつて寺院が何であったかは想像も付かない有様となっている。
 かつて寺院は仏教の研究修行の道場すなわち宗教総合大学であるとともに、医療機関も介護施設も製薬会社もない存在しない時代にはこうした厚生事業を一手に引き受ける唯一の施設だったのである。同時に、酒造りや醤油造りなどの醸造事業を始めとする産業振興でも寺院が率先開拓した事業は数多い。
 さらには、薬師寺景戒のような説話蒐集とその編纂活動は情報活動の一環と言えようが、それを再び世に出すことによってラジオやテレビなき時代にエンターテインメントのネタを提供するという役目も担ったのである。
 このような情報活動によって説話集が編集され、それが鏡物や軍記物、あるいは謡曲集、説教集となって近世の歌舞伎や浄瑠璃、文楽、はたまた近代映画のネタをも提供することになる。
 別の言葉で言えば、政體、すなわち政権を臣下の最有力者に委ねるというわがまつりごとの表面に隠されたもう一つの側面が國體活動であって、その研究・教育・厚生・医療・製薬・慈善・採鉱・産業・情報・芸能・娯楽等全般にわたる活動の拠点が行基開基を標榜しつつ奥深く役行者を祀る寺院だったのだ。
 景戒が大伴連忍勝の説話で本当に言いたかったことは地域の氏長者と雖も氏寺の物を私してはならない、ということである。なぜなら、氏寺は単に氏の寺であるばかりでなく地域あるいは全国規模の公共活動の拠点だったのであり、信濃小県郡嬢里の大伴氏はその重要な一翼を担っていたからだ。