みょうがの旅    索引 

                      

 信濃源氏とわが国における家格信仰 
         (世界戦略情報「みち」平成26年(2674)11月1日第414号) 

●見渡す限り視界を遮るものがないほどの大平原に住んだことはない。だから、かつて平将門が暴れ馬で駆け巡ったといわれる茨城県の岩井や守谷のあたり、板東平野のど真ん中に立つと、何だか不安な感じがしてくる。北東に筑波山が見えるものの、他の三方には見渡す限り山がない。
 わが産土である吉備中国小田郡(きびなかつくにおだのこほり)は山々に囲まれた小盆地の連続する土地であったから、思えばいつも山に抱かれているような安心感があったのだ。瀬戸内海の穏やかな海に臨む場合でも、背後には山々が支えてくれていた。
 それが板東平野のど真ん中に立つと、すぐ近くに山がない。何となく不安な感じがするのである。こういう所に住んでいたら、こそこそ山に隠れるような小細工は効くまい。一か八か戦って、もし勝てば他を支配する者となり、敗れれば強い者に従うほかはない。かくて、こういう大地に板東武者が誕生したのだ。欧亜に跨がって拡がる中央アジアの大平原地帯には比べるべくもないのだろうが、日本列島の中では北海道とともに板東平野は限りなく広く、大きい。
●酷熱の八月が過ぎて九月になってもまだ床に汗が滴り落ちるような日々が続いたが、その暑さもやっと落ち着きを見せるようになったころ、去る九月下旬に望月牧のあった信濃の佐久平(さくだいら)に行ってきた。
 よいところである。山々に囲まれた土地である。しかも、わが産土ほど、せせこましくない。ほどよい広さの眺望が開けている。これなら、遙かな彼方の炊煙も狼煙も、風のない晴天の日には見逃すことはあるまいと思われるほどの広さである。昔の人はわれわれよりもっと遠目が効いたはずだから、佐久平はまさに「一望の地」であったといえる。
 信濃にはこの佐久平のほかに、上田平、塩田平、諏訪平、松本平などのように、かつては「……平」(だいら)と呼ばれた地形が多い。それは板東平野ほど広くはないが、四囲山々に囲まれた小盆地よりはよほど広々とした平原を指して命名した、山間地の中規模平原のことである。
 平原とは言っても、丘あり川あり谷あり、決して平坦の地ではない。ゆえに「平」という。実に正確な命名だと、現地を訪れてみて初めて実感したことであった。
●その信濃は「信濃源氏」の発祥の地とされている。板東武者の頭領に任ずるのは、なぜか源氏と相場が決まっていた観があるが、鎌倉に本格的な武家政権を開いた源頼朝にしても、それを継いだ足利尊氏にしても、確かに源氏頭領家の出自ではあるが、その頭領を取り巻く麾下重臣たちには源平混在し、むしろ北条氏を始めとして、千葉氏や三浦氏など、平氏の方が数多い感すらある。それら有力平氏の中には将門の末裔を誇る氏族も少なくない。
 ところが、「信濃源氏」とは聞いても、「信濃平氏」とは、とんと聞いたことがない。それはなぜなのか?
 浅学の身には見当も付かないが、佐久平を訪れてみて考えたのは、板東平野というだだっ広い、ただ一枚の大平原に育まれた武士と、山間中規模平原すなわち「平」(だいら)の集合体である信濃に生まれ育った武士の間には、地勢風土の違いに由来する気質の相違が決定的にあったのではないかという点である。
●そういう根拠なき暴論はさて措き、佐久平に入ってすぐに小休憩したコンビニのベンチに座って眺めてみると、刈り入れ寸前の黄金色に色づいた稲穂が一面に拡がって、実に豊かな土地であることを実感させる。北には浅間山、西には遙かに北アルプス、南は蓼科山と八ヶ岳、東は小振りの物見山と八風山があって軽井沢に抜ける谷に迫っている。ほどよい広さと、ほどよい起伏に富んだ穏やかな土地である。古代と中世に馬を放牧したというが、馬の飼育には、いかにも打ってつけの土地だったことだろう。
 冬には積雪があるのかと土地の人に聞いてみると、雪が降るには降るが、豪雪で往来できないほど積もることはない、という答だった。
●先に、『日本霊異記』に載る信濃国小県郡嬢里(おみなのさと)の大伴連忍勝(おしかつ)の蘇生譚を採り上げたが、このような説話集にも記録されているくらいだから、氏寺を建立するほど信濃に大伴氏が盤踞したのは確かであるにも拘わらず、さらには延喜式神名帳に列する佐久郡三座のうちの「大伴神社」に擬せられる神社が歴史の風雪に耐えて奉斎されつづけ佐久郡望月と同野沢に残っているにも拘わらず、望月氏のみならず中世・戦国の信濃武士の中に、古代豪族大伴氏末裔を名乗る者がほとんど見当たらないのは、考えてみれば不思議である。
 大伴氏は後世にも神社随身門に大伴・佐伯と併置されるほど、天皇の藩屏役を担う代表的な古代氏族であった。大伴家持が陸奥小田郡で黄金が産出された時に奉祝のために作った長歌の一節は軍歌に採用され国民歌謡として全国に放送もされ、「第二国歌」とまで言われたが、次の歌である。

海行かば 水漬(みづ)く屍 山行かば 草生す屍 大君の辺(へ)にこそ死なめ かへり見はせじ

 実は、この有名な長歌は同時に天皇藩屏としての大伴氏の家職を自負する歌でもあったと考えられる。
 長歌であるから一大長編詩であって、その全編を引用する紙幅は今ないが、その直前の一節、

 大伴の 遠つ神祖(かむおや)の その名をば 大久米主(おおくめぬし)と 負ひ持ちて
 仕へし官(みやけ)
 ……
 立つる言立(ことだ)て 人の子は 祖の名絶たず 大君に まつろふものと 言ひ継げる
 言の官ぞ 梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩(は)き 朝守り 夕の守りに
 大君の 御門の守り 我れをおきて 人はあらじと いや立て

を読めば、大伴氏が天皇直属の藩屏として「御門の守り」たる家門をいかに自負していたかがよく分かる。
●家持の長歌に歌われたように、天皇直属の古代雄族として大伴氏は自他共に許すほど著名だったが、中世ないし戦国時代の武士として転身することはなかった。誇るべき家門の遠祖として「大伴氏」を仰ぐ戦国武将はなかったのである。それは全国的にもそうであったし、信濃でも事情は同じだった。
 わが国の代表的な家門としてよく「源平藤橘」の四姓が挙げられるが、全国各地の武士たちが挙って遠祖に迎えた(がった)のは、圧倒的に源平、すなわち源氏と平家であり、特に好まれたのは「源氏」である。平家一門は一時は全国制覇とも称すべきほど隆盛を極めたが、『平家物語』に哀悼されるように「盛者必衰」の慣らいで衰亡したので、平氏を名乗る武士に詐称や仮託の類はより少ないはずである。
 平氏に比べると、源氏は名目的には鎌倉・室町と武家政権の統領に任じたから、各地の武士たちは競って源氏の末流を名乗り、果ては「征夷大将軍は源氏でなければならない」などという迷信も生まれた。
 ただし、迷信にもそれなりの根拠がある。それは「アンチ藤原」という旗幟((し)を鮮明にするという意思表明だったのではないかと私は思う。古代雄族だった大伴氏や葛城氏、物部氏などを遠祖に仰ごうとしても、それら古代の有力氏族は軒並み藤原氏によって滅ぼされて盛時の勢力を失ってしまった。戦国武士が実力を備えて後に武門の名を整えようという場合に、その系譜を滅んでしまった古代豪族に結びつけたとしても、周囲が恐れ入るような効果は何ら期待できまい。
 さりとて、藤原氏の流れに与することには大いに抵抗があったに違いない。なぜなら、「藤原」とは、自らが実力によってのし上がって蚕食すべき既成権益の代名詞だったからである。廉恥を旨とする武士たちは、「藤原」がたとえ隠然たる勢威を保持しつづけていたとしても、敵に連なることを潔しとはしなかったのだ。
●そこで、新興の武士たちは、臣籍に降下したとはいえ、高望王(たかもちおう)(桓武天皇第三皇子葛原親王の孫)や経基王(つねもとおう)(清和天皇第六皇子貞純親王の子)など、元々を辿れば天皇の実子や孫であった高貴なる血統に連なることを以て武門の誇りとしたのである。
 稀には実際に桓武平氏や清和源氏の流れを汲む武士の家門もあったに違いなかろうが、その多くは詐称や仮託の産物であった。だが、それはそれで一向に差し支えはなかったのである。
 実は、わが国における血統・家系とは純粋な生物学的血統(ブラッド)の遺伝的継承を謂うのではない。養子や養女を許容し、果ては取子取嫁までも許容する血統とは何か? それは一種の信仰とでも言うほかない。信仰に基づく家職ないし家格の継承こそがわが国における家系の本当の意味である。
 そして、家職・家格とは天皇を中心とする公的な秩序における一定の役割の謂いであった。たとえ実際の発祥が暴力装置に過ぎなくても、武士たちは高貴なる血統に連なることによって公的秩序の中にわが家門が位置づけられることを悲願とした。各地の武士が「平氏」や「源氏」の流れを名乗った背景には、わが国独特の家格信仰があったのである。