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天武天皇による五京構想と信濃造都計画 
            (世界戦略情報「みち」平成26年(2674)11月15日第415号) 

●七世紀のユーラシア大陸全域に及ぶ大動乱はイスラム教の成立とその急速な伝播を起爆剤として各地に古代国家の終焉と再編を促したが、この過程で支那大陸では「五胡十六国」と称された北方遊牧民族、特に鮮卑系諸部族により樹立された諸王朝が順次崩壊して最終的に唐朝が成立、朝鮮半島でもこの唐と結託した新羅が百済・高句麗を滅ぼし半島を制覇した。西方ではササン朝ペルシア帝国が瓦解し、イスラム教を奉じるアラブ勢力の席捲を許して地域勢力図に大きな変更をもたらした。
 中央アジアでは烏桓・鮮卑など蒙古系遊牧民族に代わりトルコ系の鉄勒・突厥族が擡頭し、なかでも突厥は短期間ではあるが中央アジア全域にわたる覇権を確立し、西では東ローマ帝国と、東では唐朝と対峙する一大帝国を樹立した。
 わが国における大化改新と白村江の戦い、および壬申の乱が、この七世紀ユーラシア大陸大動乱に震撼され連動していたことは間違いないが、高句麗救援を目的として半島に派兵を行ない唐・新羅連合軍に完敗を喫した白村江の戦いを除くと、いまだ大陸大動乱との関係が充分に解明されたとは言いがたい。
 七世紀ユーラシア大陸大動乱の勃発に対処した聖徳太子と、この大動乱の行く末を見定めて壬申の乱に勝利し、記紀という国史の編纂を命じた天武天皇とは、一体何者だったのか、その実像はいまだ以て多くの謎のベールに包まれたままである。
●『日本書紀』天武天皇一三年(六八四)二月の条に、

 癸丑朔の丙子(二四日)に、金主山(こむしゅせん)を筑紫に饗(あへ)たまふ。庚辰(二八日)に、淨廣肆(じょうこうし)廣瀬王(ひろせのおおきみ)・小錦中大伴連安麻呂及び判官・錄事・陰陽師・工匠等を畿内に遣(また)して、都つくるべき地を視占(み)しめたまふ。
 是の日に、三野王・(みののおほきみ)小錦下采女臣(うねめのおみ)筑羅(つくら)等を信濃に遣して、地形を(ところのありかた)看(み)しめたまふ。是の地に都つくらんとする歟(か)。

とあって、天武天皇による新都建設の勅が発せられたことを記録している。
 この記事によれば、天武天皇は翌年九月の崩御を前にして、最晩年のこの時期に都城地の選定に意を注いでおられたことが分かる。
 前年天武一二年一二月一七日に発せられた同日第二の勅で、

 凡そ都城(みやこ)、宮室(おほやけ)、一處に非ず。必ず兩參造らむ。故れ、先ず難波に都つくらんと欲(おも)ふ。是を以て、百寮の者、各往(まか)りて家地を請(たま)はれ。

と述べ、まず第一に難波に都城を建設することを勅されたが、都城は一つに限るものではないとして、第二および第三の都城を建設する方針を明らかにされていた。 
 天武天皇が抱懐したこの「複数都城計画」はわが国において他に例を見ない、ユニークな都城観に基づいていたと言うべきであろう。
「畿内」に属する難波に都城を設けることは大陸・半島に対する外交・交易の出発地として妥当な選定であり、すでに齊明天皇が行宮を置いた先例もある。また、難波の他に「畿内」の都城候補地を探したことも畿内という言葉の本来の意味、すなわち「都城周辺地区」からして当然の選択である。わが国の都城のほとんどはそれまで畿内に置かれてきたからである。
 天武天皇による都城計画のもっとも特異な点は、それら難波を含む畿内の外に、すなわち幾外に都城を構えようとしたことであり、その候補地に信濃が想定されていたことは瞠目に値する。
●信濃国に派遣され都城建設地の選定を命じられた三野王たちは二ヶ月近く経って復命したことが『日本書紀』の天武天皇一三年の閏四月条に記されている。

壬辰(一一日)、三野王等、信濃國の圖(かた)を進(たてまつ)れり。

 つまり、信濃国における現地調査に基づいて信濃京建設計画図を奉呈したのである。報告を受けた天武天皇は、直ちに信濃京の造営を決意したものと思われる。
 ところがここに天変地異が勃発して、天武天皇の信濃造都計画を阻む甚大な被害が出る。すなわち同紀一四年三月条に日付は特定されていないが、

 是の月に、灰、信濃國に零(ふ)れり。草木皆枯れぬ。

とあり、浅間山噴火による火山灰の降積のために草木が立ち枯れするという被害が報告されているのである。記述は以上の通り簡単なので、「灰」が浅間山噴火によるものか、それとも焼岳の噴火灰なのか議論があるが、通説では浅間山の噴火による火山灰と考え、これを以て浅間山噴火の最初の記録としているようだ。
 火山噴火と火山灰の降積による草木立ち枯れという天災にも拘わらず天武天皇は信濃造都計画を諦めなかったと思われる。なぜなら、天武天皇紀一四年冬一〇月条に、

 壬午(一〇日)、輕部朝臣足瀬(たるせ)・高田首新家(にひのみ)・荒田尾連麻呂を信濃に遣(つかは)して、行宮(かりみや)を造らしむ。蓋し、束間温湯(つかまのゆ)に幸(いでま)さむと擬(おも)ほす歟(か)。

と記されていて、信濃国に行宮の建設を命じられているからである。書紀の筆致は病気平癒のための一時的な温泉行幸として片付けたい意向を滲ませているが、先の「是の地に都つくらんとする歟」という表現と併せ書紀が皮肉な記述で結んでいるのに反して、天武天皇はあくまで信濃造都に熱意を持ちつづけておられたのではないかと思う。
 すなわち、天武天皇はわが国の都城として、少なくとも三つ以上の都城を建設する計画を明確に抱いていたのである。
●それまでのユーラシア史において、国都として三つ以上の都城を建設したのは、特に興味のあることしか保存しないという欠陥を持つ管見の記憶する限りでは、東西に二つの牙庭(がてい)(首都的天幕群)を配し、鬱督軍山(ウテュケンさん)(都斤山とも)に宗廟を兼ねる牙庭を営んで三都制を採った突厥の例しか思い出せない。
 天武天皇以後の歴史では、高句麗の後継国家である渤海(六九八~九二六)が

上京龍泉府
東京龍原府
中京顕徳府
南京南海府
西京鴨緑府

を以て五京制を敷いていたことは歴史に明らかである。その五京の配置を見ると、半島全域と遼東地域を新羅・唐連合に抑えられていたことを除けば、旧扶余の版図をほとんどカバーして要衝ごとに都城を置いたことが見てとれる。
 各京の所在地は異なるが、この渤海の五京制をそのまま踏襲したのが渤海を滅ぼして契丹族の建てた遼(九一六~一一二五)である。
 支那中原では鮮卑系宇文氏の建てた北周(五五六~五八一)以後、長安を首都に旧都洛陽を陪都とする二都制が出現し、随・唐にも踏襲されたが、唐はさらに開元一一年(七二三)に太原を北都として三京の制を、至徳二年(七五七)には鳳翔(西京)と成都(蜀都)を加えて五京制を採ることとなった。だが、版図拡大に伴って順次複数の都城を置いた中原国家の都城制と渤海・契丹(遼)の五京制とは構想の質において、似て非なるものであると考えたい。
 というのも、複数の都城を営むという構想をいま「複都制」と呼ぶとすれば、要衝の地にそれぞれ都城を置いて国家経綸の要とするというこの「複都制」の発想自体が、支那中原の領域支配の思想からは生まれてこないと思うからである。それは名目的な支配領域の広狭に拘らないで常に実質的支配を旨とした遊牧民的発想に基づくものである。一歩を譲れば、遊牧民的発想に若干の領域支配的中原発想を取りこんだ構想とも言うことができようか。
 先に挙げたように、天武天皇による「複都制」の構想は、歴史的に突厥と渤海、そして遼の都城構想に連なるものであり、しかも恐らくはそのいずれに対しても歴史的に先蹤となる地位を占めている。ただ惜しむらくは、天武天皇がこの複都制構想に基づく都城を実際に建設することなく崩御され、わが国において五京制が陽の目を見ることなく終わったことである。
 もし、天武天皇がもう少し長生きをされ、わが国に「五京制」を実現されていたとすれば、難波京と飛鳥京の外に、信濃佐久京と能登福良(ふくら)京(石川県羽咋郡富来町福浦)、そして武蔵高麗京(埼玉県日高市及び飯能市)という三京を置かれたのではなかろうか、と想像を逞しくしている。福良京は後に渤海使節のために「能登客院」が設置され(ようとし)た地で、武蔵高麗京は高句麗遺民の若光王のため高麗郡を置いた地(現在は高麗神社がある)である。
 かかる五京制が敷かれていたならば、いま佐渡島に支那が侵略の拠点を設営することを案ずる必要もなく、また新潟に広壮な支那領事館建設を許すこともなく、さらには関東侵攻の中継地点として伊香保温泉に至る浅間山麓の広大な丘陵地を星雲大師(俗名李国深)率いる大陸系台湾仏教仏光山寺に売却することもなかったのではないか。