みょうがの旅    索引 

                      

 美濃・信濃・越後経由日本海大陸ルート 
            (世界戦略情報「みち」平成26年(2674)12月1日第416号) 

●天武天皇が「五京構想」を抱いておられたかどうかは具体的な史料の裏付けがないので明言できないが、日本書紀天武天皇条の短い記述の背景を臆測すれば、七世紀ユーラシア大動乱に鑑みて日本列島防衛と大陸・半島との連携強化のために、日本海側の海港都城とそれを外港とする内陸都城として信濃に都城を建設する構想があったとしても不思議ではない。
 白村江の大敗(六六三)を教訓として列島防衛計画を策定するならば、天智天皇が実施された九州北岸の水城および大野城建設や瀬戸内海沿岸高台へのいわゆる「朝鮮式山城」の建設だけでは日本海側の守りをまったく放棄するに等しい情況だったからである。
 さらに言えば、古人大兄皇子によって「韓人」とも呼ばれた中大兄皇子=天智天皇が親百済色の一色に終始したのとは異なり、大海人皇子=天武天皇には親高句麗色が随所に彷彿とする。中大兄皇子にとって高句麗はあくまで宿敵であって高句麗との同盟・連繋など論外であったに相違ない。むしろ、高句麗攻撃を続ける唐と和解した痕跡すらある。ところが、大海人皇子には唐との対決姿勢が顕著で、高句麗とは常に協調・連携関係にあったのではと推察される。
●こうした史実を踏まえて、小林惠子(やすこ)氏は『興亡古代史』(文芸春秋、平成一〇年)などにおいて、中大兄皇子=天智天皇とは百済三〇代の武王(在位六〇〇~六四一)の息子として生まれたが、三一代目にして百済最後の王となる義慈王(在位六四一~六六〇)によって、武王妃だった母とともに放逐された翹岐(ぎょうき)その人と見なしている。
 すなわち、皇極紀元年二月二日条に百済使臣の報告として、

 今年の正月に、國の主の母薨せぬ。又弟王子、兒翹岐及び其の母、妹女子四人、内佐平岐味、高き名有る人四十餘、嶋に放たれぬ。

と記しているが、上の文中の「兒翹岐」が「嶋」すなわち済州島に放逐された後に、倭国に迎えられて中大兄皇子となり、「其の母」が皇極天皇となったと言うのである。
 そして、大海人皇子=天武天皇とは唐に対し和平・屈従路線を唱えた高句麗二七代栄留王(在位六一八~六四二)を始め親唐派貴族一八〇人以上を粛正し、宮廷クーデタ(六四二)を敢行して、高句麗二八代王には宝蔵王(在位六四二~六六八)を擁立した大莫離支(軍事・行政の最高官、ササン朝ペルシアの大臣(マリキ)の称を導入したものともいわれる)の淵蓋蘇文(えんがいそぶん)(書紀では伊梨柯須彌(いりかすみ))であるとする。
 この淵蓋蘇文による宮廷クーデタについても皇極紀は詳しく伝えている。すなわち、前掲記事より四日後の皇極元年二月六日に高麗(高句麗)の使人の言葉として次の記述がある。

 去年の六月に、弟王子薨せぬ。秋九月に大臣伊梨柯須彌(いりかすみ)、大王を弑(ころ)し、幷(あは)せて伊梨渠世斯(いりこせし)等百八十餘人を殺せり。仍(よ)りて弟王子の兒を以て王と爲せり。己が同姓の都須流金流(つするこむる)を以て大臣と爲せり。

 小林惠子氏による同一人物説の裏付け考証には納得できる点も多いのだが、聖徳太子を突厥の達頭(タルドゥ)可汗と同一人物とするなど、余りにも奇想天外な点もあって、全面的に賛同してわが主張とするには聊か臆するものがある。
 しかし、大海人皇子=天武天皇と高句麗との関係をこれほどズバリと表現した指摘は例を見ない。大いに参考とすべきで、同志飯田孝一に教えられて小林惠子説に触れて以来、その奇抜な説を咀嚼するのに長い時間が掛かっている次第である。
●ともあれ、高句麗との連繋を重視する天武天皇にとって、美濃・信濃・越後を経由して日本海に通ずるルートは軍事的重要路線であった。壬申の乱には国内勢力のみならず大陸の唐や朝鮮半島の新羅と結ぶ勢力、さらには倭国に亡命した百済遺民および高句麗遺民などが複雑に絡み合って関与していたはずで、日本海からの軍事来援もあったに相違ないが、書紀の記述は余りにも簡潔である。
 小林惠子氏は先に引用した天武天皇紀一四年冬一〇月条の信濃行宮建設を、天武天皇が日本を脱出する途中に信濃で殺され、信濃に殯宮(もがりのみや)を建てたことの暗喩と見ている。

 おそらく八月三日に筑紫に来たという高句麗使者と、天武の逃亡は連動するのだろうが、天武は同じ三日の夜、大和を出発して〝壬申の乱"の時のルート、つまり美濃から信濃を経て新潟に道を通って逃げようとした。しかし『書紀』は造法令殿に虹が出たという二日後の丙寅(五日)に、天武はどこかで殺されたことを暗示しているのだ。
 このことは天武一四(六八五)年一〇月条に、百済僧が美濃に行って白朮(おけら)を煎じるとあり、信濃に行宮(かりみや)を作ったとあることから推察される。『書紀』には天武が束間(つかま)の湯(浅間温泉)に行こうとしたのかと疑問符をつけているが、白朮は薬であり、温泉は病人が行く場所だから、この条で天武が病人であることを暗示したのである。
 しかし、白朮を煎じる場所が、なぜ美濃でなければいけないのか。天武の湯沐邑は美濃だった。漢の武帝は出身地の沛を湯沐邑にし、死後、霊廟を建てさせた。同じ意味で、美濃で白朮が煎じられたのは天武の招魂祭のためだったのではないかと思う。
 信濃に行宮を作ったとあるが、信濃まで来た時に天武は殺され、信濃に殯宮(もがりのみや)が建てられたのを行宮と記したのではないか。(『興亡古代史』四五七~四五八頁)

 小林説に拠れば、すでに百済と高句麗を滅ぼし新羅を支配下に収めた唐に対して唯一人徹底抗戦の姿勢を堅持している淵蓋蘇文が倭国王に就いていることを許すわけに行かない。高市皇子(通説とは異なり天智の息子とする)と大津皇子(母方から天智の血を引く)を使嗾して、唐と講和した天智天皇の路線を踏襲させようとしたと言うのである。讖緯説による日本書紀の暗示的表現を読み解くという手法によって、奔放奇抜とも言うべき東アジア古代史を構築した小林説は大いに魅力的だが、そこに齟齬・破綻がないかどうかを見分けるには読む側にも多大の労力を要する。今は、ただ紹介するに止めるしかない。
●天武天皇が美濃・信濃・越後を通る日本海ルートを頼りとした根拠の一つとして、高句麗や靺鞨からの渡来民がこれらの地域に扶植されていたことが挙げられよう。その考古学的証拠として積石塚古墳群の存在がある。
 総数五〇五基もの積石塚古墳は日本最大の規模で、それが長野市の南にある松代大室山の山麓に集中している。「大室古墳群」である。その内の三〇基は天井が三角形の合掌型石室墳で、この合掌型石室墳二ないし三基を中心にして周囲を二〇から三〇基の積石塚古墳が取り囲むような形で古墳群は分布している。ほとんど盗掘され尽くしているが、それでも残存する土器片などから年代測定した結果、古墳の築造時期は古墳時代中期の五世紀に遡ることが明らかになった。まず合掌型古墳が最初に築造され、その後その周囲に積石塚古墳が順次築造されていったことも分かった。
 積石塚古墳群の中心的な存在である合掌型古墳は当初は百済公州の柿木洞の石室との関係が論じられたりもしたが、柿木洞石室の築造年代が六~七世紀に下ることが判明した結果、現在では半島南部に積石塚が伝わる遙か以前に高句麗系統を直接継承したものと考えられている。
 大室古墳群のある大室山の山麓は、古代の官牧である「大室牧」の範囲と重なっている。ということは、高句麗からの渡来民が馬の放牧に適した信濃の地に扶植され牧場経営に当たったことを示している。
 長野県にある積石塚古墳は大室古墳群以外にも長野市東南部の大室古墳群の東に隣接する若穂山にあるニカゴ塚(合掌型古墳)や松本市針塚積石塚、須坂市の八丁鎧塚古墳群などがあり、いずれも善光寺平を中心とする北信地域に集中している。
 ただし、高句麗系渡来民が長期間にわたって彼らだけで排他的に集団生活を営んだ痕跡はない。大室古墳群の例でいえば、最初に築造されたと見なされている合掌型石室墳が渡来系指導者の古墳であった可能性は高いが、それを取り巻くように位置する積石塚古墳には高句麗式積石塚に特徴的な組石構造が見られないことから、信濃現地での工夫変形と考えられている。
 すなわち、北信善光寺平において高句麗系渡来民の来住があったとしても、彼らは地域指導者として尊敬されつつ従来からの地域集団に抵抗なく吸収されていったと考えるのが自然である。もっとも先進技術(北信の場合は馬の放牧)を有する地域指導者として永く尊敬されたことは確かなようで、天武天皇はそうした地域指導者を頼りとして日本海を渡る大陸ルートを重要視していたのではなかろうか。