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 長野県東御市下之城両羽神社奉納木像考 
               (世界戦略情報「みち」平成26年(2674)12月15日第417号) 

●まず下の写真を見て頂きたい。古色蒼然たる二体の木造が並んで写っている。左の木造は「貞保(さだやす)親王」の像、右の木像は「渤海人船代」の像であると、『信濃奇勝録』に書かれているという。
 信濃における滋野氏の痕跡を求めてネットを渉猟している時に、

     「海野史研究・郷土の歴史」(http://musha.mobi/index.php?)

というサイトを見つけた。その中の「海野史物語」という章に「大伴氏と中曽根親王塚」なる項目があり、この二つの像の写真が掲載されていた。その説明として、次のように述べている。

「信濃奇勝録」にもありますが、北御牧村下之城の両羽神社に奉納されている2体の木像があります。1体は海野氏の祖と言われる貞保親王の像で、もう1体は目が大きくて、牙があり総髪の異様なもので、ダッタン人(満州や沿海州をダッタンと言っていた)と呼ばれている船代の像であります。

            (左)貞保親王 (右)船代木像=ダッタン人 (両羽神社)

 説明にある「北御牧村」(きたみまきむら)は市町村合併で現在は「東御市(とうみし)」となっている。二つの像が奉納されていたという両羽(もろは)神社は鹿曲川(かくわがわ)の東岸、東御市の下之城(しものじよう)地区にあるが、このあたりは本誌本年九月十五日号の巻頭言「信濃一六牧筆頭望月牧考」で考証したように、古代の望月牧が所在した領域に相当する。望月牧の領域には「御牧原」や「御牧台地」などの地名も残っている。両羽神社はその御牧台地の西側斜面に鎮座する。
 両羽神社はかつて「望月牧惣社」として崇敬を集めていたという伝承もあるように、望月牧と密接な関係があることは疑いない。
●その両羽神社に奉納された二体の木像。その一体が「貞保親王像」とされるのは、望月牧を始めとする古代信濃牧と滋野氏との関係から充分推測されることではあるが、こうして具体的な物証として伝承されてきたということは貴重である。
 兄弟揃って古代日本人としては稀な巨漢だった滋野貞主(七八五~八五二)と貞雄(七九五~八六〇)についてはかつて触れたことがあるが、清和天皇の第四皇子貞保親王(八七〇~九二四)が信濃国海野庄(現在の東御市本海野)に下向居住し、滋野貞雄の孫恒蔭(つねかげ)の娘を妻に迎えて儲けた目宮王の子の善淵(よしふち)王が延喜五年(九〇五)に醍醐天皇より滋野姓を賜わったというのが、滋野御三家といわれる清和源氏滋野氏流を称する海野氏・禰津氏・望月氏の始祖伝承である。その貞保親王の木像が望月牧の惣社だった両羽神社に奉納されていたのである。
 ただ、貞保親王が居住したとされる本海野の白鳥神社の御祭神には日本武尊、白鳥大明神、須佐之男命とともに清和天皇第三皇子の貞元(さだもと)親王と善淵王が祀られていて、果たして実際に貞保親王や貞元親王が信濃に下向居住したのかどうか疑う向きもある。
 貞元親王には上総国周淮(すえ)郷(君津市貞元(ていげん)地区)にも下向居住伝承があり、貞元親王の墓と称する塚が江戸時代に建立されている。ほかにも、伊賀国名張郡王宿村(三重県名張市大屋戸字宮本)の杉谷神社付近にも、貞元親王墓と伝える親王塚が存在していて、貞元親王下向伝承は信濃に限らないようである。
 貞元親王に比べて、貞保親王の信濃下向伝承は微に入り細を穿って詳細を極める。前引した「海野史物語」の中の「平将門と善淵王」という項には、人口に膾炙した説話として興味深い話が載っている。

 清和天皇の第四皇子に貞保親王という方がおり、「桂の親王」とか「四の宮」とも呼ばれておられました。
 貞保親王は琵琶がお上手でありました。ある日、親王が琵琶をお弾きになっていたところ、その演奏の妙なる音色に誘われて一羽のツバメが御殿に入ってきました。そのツバメは曲に合わせて飛び回りました。あまりにも優雅に飛ぶもので、周りの人達は驚きの声をあげたその瞬間、貞保親王は目を開いてツバメを見上げた時、ツバメの糞が目に入り、痛み出し名医に見てもらったも治りませんでした。
 そのとき信濃国の深井の里のむすめが「信濃国に不思議なほど病に効く加沢温泉があります」と申し上げました。
 そこで親王は信濃国へ下向され、深井の館にお入りになって温泉に浴されたところ、お痛みはとれましたが、御目は不自由になられたので、そのまま海野庄に住みつくことになりました。
 深井某の娘は盲目であった親王の身の回りの世話をしていましたが、やがて御子が生まれ、この御子が成長をして善淵王と称するようになりました。醍醐天皇の延喜五年(九〇五)に善淵王は滋野姓を賜りました。
 善淵王は真言宗に深く信仰があり、寺を建立した。貞保親王を宮嶽山稜(みやたけさんりょう)に葬り、神として奉祀した。これが祢津西宮(現東部町祢津)の四之宮権現である。天慶四年(九四一)一月二〇日に亡くなられ、善淵王の法名(海善寺殿滋王白保大禅定門)を取って海善寺と称された。

「盲目となった親王」とは、いかにも琵琶法師あたりが持ち歩くのに恰好の貴種流離譚であるが、現在の上田市田町にかつては「配当屋」なるものがあって琵琶法師などの遊芸の徒を差配し、しかも、永くその差配に当たったのは深井氏だったとされている。
 貞保親王を祀るという四之宮神社と先に述べた両羽神社の門前にはかつて巫女たちが市を為したとの伝承もあり、両社がいわゆる「歩き筋」の聖所で、貞保親王は蝉丸と同じく盲目遊芸民の崇敬の的ではなかったかと推測させるに足る。
 しかし、史料では信濃下向の事実はなく、ただ琵琶・和琴・尺八などの名手であり、「管絃長者」「天下無比名手」と称されたとのみ伝える。横笛の名器「穴貴」を吹く時は、その音色が模糊として幽玄、さながら消えかかる霧の如しであったため上霧(うわきり)と讃えられたが、袖の雪を払った時にポキリと折れてしまった。勅命により笛や琵琶秘手の伝授を行なったという伝承もあり、『新撰横笛譜』『南宮琵琶譜』などを撰進して宮廷楽人に重宝されたとの記録も『体源抄』や『江談抄』などにあるという。
 深井氏は貞保親王の世話をしたという娘の出た氏族であり、さらに深井氏は滋野氏同族の紀氏流を称するなど、古代豪族として東信地方に確かな地盤を有していたようである。
 現在の東御市東深井、西深井は室町時代には小県郡深井郷と呼ばれていた。ここに拠る深井氏は戦国時代に真田氏配下となり、松代城に移った真田信之にも従ったが、深井馬之介は元和八年(一六二二)の家臣団四八騎退去事件に加わって武士を棄て郷里に帰農したと言われている。東深井には今も深井姓の人が多く住んでいる。
 話に出て来る「加沢温泉」は現在は「鹿沢温泉」(かざわおんせん)と書かれ、群馬県吾妻郡嬬恋村にある。群馬県(旧上野国)に属するが、その昔は小県郡深井郷に拠る深井氏の領地であった。
 県道九四号東御嬬恋線を使えば、湯の丸高原を越えて最初に辿り着く集落が鹿沢温泉郷である。その群馬県鹿沢温泉で旅館の紅葉館を営む小林家に先に挙げた貞保親王信濃下向の話が残されていて、「信州加澤郷薬湯縁起」と呼ばれているそうである。
●両羽神社に奉納されたもう一つの木像は「船代木像」とか「ダッタン人」と呼ばれている。一見して分かるように、ずんぐりとした異様な風体である。 この地方の伝承によれば、「船代」とは渤海からの渡来人で、善淵王の師となった人物であるという。
 実は『日本後紀』では、延暦一七年(七九八)に派遣されてきた第一四次の渤海使節大昌泰を送るため翌年延暦一八年に遣渤海使に任命されたのが、滋野宿禰船白だった。滋野宿禰船白の事跡は典拠を詳らかにしないが、滋野氏系図では貞主・貞雄兄弟の父滋野宿禰家訳(いえおさ)の弟で、正六位上、式部少輔に任じたとある。
 では、両羽神社の木像が「ダッタン人」とも伝えられるのはなぜか?
 それは次号にて。