みょうがの旅    索引 

                      

 須々岐(鈴木)さんになった卦婁部の高句麗人 
               (世界戦略情報「みち」平成27年(2675)1月15日第403号) 

●「信濃(しなの)大門(だいもん)箚記(さっき)」という古雅な名前の論考が、「信濃大門の部屋」と題されたサイトの中にある。そのリンクの url は以下の通り。

  http://www5f.biglobe.ne.jp/~sinanodaimon/sinanodaimonmain.files/daimonheya.files/daimonsaki.htm

 長野県東御(とうみ)市下之城(しものじょう)地区の両羽(もろは)神社に奉納されている木像「ダッタン人船白」についても言及されている。おそらく筆名だろうが、このサイトの作者は「信濃大門」という名前である。「筆者紹介」の欄を見てみると次のような自己紹介が書いてある。

長野県生まれ。趣味は多岐にわたります。山登り、音楽、古書収集、歴史学、人文学、宗教学などです。

 長野生まれの地元の方であるだけに行届いた篤実な研究成果が載せられていて、教えられることが多い。
 ちなみに、「箚記」(さっき)などという言葉は近時めったに使われないが、「読書備忘録」ほどの意味である。陽明学に通じた維新の先駆者として尊敬される大塩平八郎に『洗心洞箚記』なる著作がある。
 信濃大門氏の「箚記」は「海野郷戸主爪工部」や「大伴神社考」など私にとって看過できないテーマを採り上げていて、大へん有益であった。特に記して感謝したい。
●さて、その「第2章渤海国人船白」で信濃大門氏は両羽神社のダッタン人木像について先学の成果も参考にしながら次のように考察している。

 わが国(日本というよりも大和)と渤海国との交流は、渤海使の記録を見ると神亀4年(727)から30回を越え使節が来朝し、日本側からも15回以上の送使が渤海国に行っている。
 来日の使節団は当初は武官が多くその後文官が多くなった。
 大陸の先進的な武術、戦略は当時の東北蝦夷征討を目指す大和政権の武人である大伴氏にとっては得がたいものであった。渤海国人の武官の一部は大伴氏に同行し蝦夷討伐に協力し、彼らは訪れる各地(信濃・甲斐国巨間郡・信濃国・武蔵野国高麗郡等)に住む高句麗系の人々と交流をもち中には、帰国しない者もいたと思われる。
 8世紀の後半になると大伴氏の影響の強かった小県郡下は、中央の大伴氏の衰退とともに大伴氏に代わり大伴氏と関係の深い高句麗系の人々が大和政権の兵器(馬も含む)、食糧献上者や武人としてその地位を高めていった。
 続日本紀によると延暦9年(790)3月に大蔵大輔藤原乙叡が信濃守(長官)に、平群清麻呂が介(次官)に任命されるなど信濃への藤原氏の進出が顕著になった。
 延暦10年(791)から延暦14年(795)の間、大伴弟麻呂、坂上田村麻呂(祖先は渡来人)は征夷征討を行っているが、このころの大伴氏は藤原氏に対し帰順的立場になっていた。
 ……小県も延暦14年(795)ころには、信濃介の殺害未遂による藤原氏との関係悪化も回復された。
 この貴族社会においてその一員でもある滋野氏は延暦18年(799)滋野宿祢船白が日本側からの送使(朝貢した渤海国人を送る役目)として渡海している記録が類聚国史巻193にある。
 滋野氏は、渤海国人の通訳人として有力な武器等の調達地である小県との関係を持つようになりその後更に関係を深めていくことになる。
 弘仁5年(814)滋野宿祢貞主と坂上今継が出雲に到着した渤海使の存問兼領渤海客使として派遣され、文華秀麗集の作品等からこの貞主が渤海国人との親密な交流があったことが窺われる。
 延暦18年(799)に蝦夷征討で貢献した信濃国の高句麗氏族が姓氏を賜り帰化したが、特に高麗家継等の賜った「御井」の姓は天武天皇の産湯の井戸の呼称や古事記上では神の名にも使用され、その尊さから家継等は、時の政権に対し相当の貢献があり、また渤海国人や滋野氏の推挙があったものと思われる。
 ……「公卿補任」によるとその後、貞主らが朝臣の姓を賜ったのは、弘仁14年(823)正月とのことであるからそれ以前に登場する渤海国送使滋野宿祢船白は、宿祢が付いていることから東人・家訳・貞主の一族であることは確かで東人の子と推察する(望月町の旧家大草家の系図を参考にしてか?)郷土史家もいる。
 これは滋野氏内で最も信濃に関係した人物が船白であったということである。渤海国人からの最新式の武具等の製造技術の伝授を受けることは、また地元女性との交流からその子孫を残すことにもなる。そして通訳として来た滋野氏の一族も海野郷の裕福な財力は貴族として見逃せないものであり後の滋野氏の当地の支配を見ても明白である。
 郷土史家で東信地区の民俗を研究した箱山貴太郎先生の著書に両羽神社について調査した結果が掲載されているが、近世まで渤海国との交流時代を彷彿される舞姫の存在があった。
 伝承は時代とともに薄れ当時の有力な渤海人の名はいつしか滋野氏の船白(渤海国関係書では船代と書かれてもいる)と同化し、木像は渤海国人船代と呼ばれるようになったと思われる。

 長々と引用させてもらったが、以上の信濃大門氏の指摘の中に重要なことがいくつも鏤(ちりば)められている。結論として最後に書かれているのは「渤海国人の名はいつしか滋野氏の船白と同化し、木像は渤海国人船代と呼ばれるようになった」という納得できる説である。
●ただし、多くの優れた知見がありながら大枠として「大陸先進文明渡来説」に彩られているのは残念であるが、明治維新についての薩長変革史観と同様、大陸先進文明渡来説は病膏肓に入るほどにわれわれ日本人の歴史観に染みついているので、信濃大門氏一人にその打破を期待する方が無理というものだろう。
 それはさておき、信濃大門氏の所説の中で青色で区別した第一の個所は重要である。信濃に高句麗系の武人たちが大勢住みついていたことをはっきりと指摘しているからである。
 その詳細については、「信濃大門の部屋」の中のもう一つの論考集の中で採り上げられている。その論文集は、「小県郡海野郷深井郷(現長野県東御市)の古族深井氏の歴史研究」という副題をもつ「深井氏の歴史」である。その「第2章深井と御井」に六国史の第三番目に当たる『日本後紀』の延暦一八年(七九九)一二月五日条が現代語訳して掲載されている。

 信濃の国の人外従六位下、卦婁真老、後部黒足・前部黒麻呂・前部佐根人・下部奈弖麻呂・前部秋足・小県郡人無位上部豊人・下部文代・高麗家継・高麗継楯・前部貞麻呂・上部色布知等が朝廷に申し上げた。
 我々の祖先は、高麗人であります。推古天皇・舒明天皇の時(飛鳥時代593~641)に入国帰化しました。それから今まで、代々平民で、まだ高麗のときの姓を改めないで使っております。去る天平勝宝9年(757)には詔勅も出たことでございますから、どうか日本の姓を賜りたく存じます。そこで朝廷は、次のように姓を与えた。
 信濃国人卦婁真老等には須々岐
 信濃国人後部黒足等には豊岡
 信濃国人前部黒麻呂等には村上
 信濃国人前部秋足等には篠井
 小県郡人上部豊人等には玉川
 小県郡下部文代等には清岡
 小県郡人高麗家継等には御井
 小県郡人前部貞麻呂等には朝治
 小県郡人上部色知等には玉井
 ……

 ここには高麗(こま)氏と卦婁(ける)氏のほかは、上部、下部、前部、後部など、いかにもぞんざいな家名(姓)をもつ高句麗人たちが登場している。「まだ高麗のときの姓を改めないで使っている」と言うからには、高句麗でもこのような乱暴な姓を便宜的に与えられた平民や奴隷たちだったのではないか。
 彼らは日本列島にやって来ると河内や山城、東山道に沿って美濃、信濃、甲斐、武蔵、あるいは海沿いの尾張、三河、相模などに分置されて工人や馬飼、流浪の巫女・芸人となり、その中から武人となる者も現われたに違いない。 両羽神社に参集して市を為したという巫女の存在を、郷土史家箱山貴太郎氏の民俗研究に拠りながら、信濃大門氏が青色で区別した第二の部分で「渤海国との交流時代を彷彿される舞姫の存在があった」と目配りをされたのはさすがである。
 奏請して賜姓を受けた高句麗系渡来民の中で高麗姓をもつのは高句麗王家高氏の一族と思われるが、注目すべきは筆頭に記された「卦婁真老」(けるのまおい)である。高句麗は朱蒙による紀元前の建国神話をもつが、唐に滅ばされるまでおよそ七〇〇年間にわたってずっと、消奴(ソノ)部、絶奴(チョルノ)部、順奴(スンノ)部、灌奴(クァンノ)部、桂婁(ケル)部(『後漢書』高句麗伝に拠る)という五部族の対立が絶えず、王国というよりは部族連合国家の体を為していた、と観る向きもある。その五部族の中で王は初期には消奴部から立てられたが、後に卦婁部から立ったという。明らかに卦婁真老は高句麗五大支配部族の一つ卦婁部の出自を持つことが名前から分かる。