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 高句麗と百済の建国の母を産んだ卦婁部 
              (世界戦略情報「みち」平成27年(2675)2月1日第419号) 

●延暦一八年(七九九)に賜姓改名を奏請した信濃国高句麗系住人の筆頭に記された卦婁真老(けるのまおい)の名前「卦婁」(ける)が高句麗五大支配部族の一つ「卦婁部」(けるぶ)に由来することは明らかだが、卦婁部は遙か高句麗の建国神話にも登場する古族である。
 高句麗建国の祖となる朱蒙が東扶余から逃れて辿り着いたのが卒本(ソルボン)の地であった。卒本は鴨緑江の北に位置し、現在の吉林省との省境に近い遼寧省本渓市桓仁満族自治県の辺りとされている。
 もともとこの卒本の地には、魏書高句麗伝が「濊貊(わいはく)」と呼んだ人々が住んでいて、山岳渓谷で狩猟牧畜を、河川沿いの平地で農業を営む、半農半牧の生活をしていた。卒本には「句麗(クリョ)」という国がすでに存在していて卒本城を王城としていたとの説もあるが、いずれにせよ、彼らは五つの部族に分かれていた。すなわち、橡那(ヨンナ)、桓那(ファンナ)、沸流(ピリュ)、貫那(カンナ)、卦婁(ケル)[桂婁とも表記]という五部族である。
 魏書高句麗伝(三世紀末成立)では、

〔高句麗には〕古くから五族があった。涓奴(ソノ)部、絶奴(チョルノ)部、順奴(スンノ)部、灌奴(クァンノ)部、桂婁部であり、もとは涓奴部から王をだしていたが、しだいに衰え弱まり、今では桂婁部が〔涓奴部にとって〕代わっている。

と記している。
 後漢書高句麗伝(四三二年成立)は魏書の記述を踏襲して、高句麗五部族について次のように記す。

 もと五族有り。消奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部である。もとは消奴部が王となっていたが、次第に衰えて、後には桂婁部がこれにとって代わった。

●伝説では朱蒙を最初に助けたのが召西奴(ソソノ)という娘であったというが、彼女こそ卦婁部の君長である延陁勃(ヨンタバル)の娘であった。朱蒙は召西奴とその父延陁勃の支援によって、まずは卦婁部を、そして残りの卒本四部を次々に味方に付け、さらには北辺の靺鞨(マルガル)族などをも服属させて信望を厚くした。
 別伝では、句麗王には男子の継嗣がなかったので、信望のある朱蒙を婿に迎えようとした。朱蒙は扶余の王宮にいた時代にすでに離宮女官の礼少椰(イェソヤ)と結婚していたが、朱蒙が扶余を去った後に礼氏は男子を産んだ。高句麗第二代の王となる瑠璃(ルリ)[孺留(ユリュ)、類利(ルリ)とも表記]である。卒本に来てから朱蒙は召西奴と結ばれていた。
 魏書高句麗伝の高句麗五族についての説明にある、「もとは涓奴部から王をだしていたが、しだいに衰え弱まり、今では桂婁部代わっている」というのが朱蒙の卒本に来る以前の状況であったとすれば、別伝に言う句麗王とはどうやら卦婁部君長の延陁勃を指し、また句麗王の第二女とは召西奴を指すとも考えられるが、別の解釈もあり得る。
 やがて、延陁勃が亡くなり、朱蒙が跡を継いで句麗王となる。朱蒙の姓が「高」だったので、高氏の句麗という意味で国号を「高句麗」と称することにした。西紀前三七年、朱蒙二二歳の時のことだという。
 これに倣えば、渤海国は高氏の句麗国が滅んだ後に大氏が再興した句麗国だから「大句麗」と称してもよかったことになる。ただ、建国の祖となった大祚栄は国号を「大句麗」とはせず、「渤海」としたのである。
●さて、高句麗建国以前の卒本五部族がどういう位置にあったか明らかではないが、五部族に東西南北の部および中部と称する別称があることから、そのような位置関係にあったと推測されるが、具体的な所在地域は不明である。高句麗以後の五部族の配置は大体分かっている。支那史料の表記に従って大凡の位置関係を見ると、次のように纏められるだろう。

 「涓奴部」(ソノブ)……朝鮮史料に言う「橡那(ヨンナ)部」に当たる。別称で「西部」もしくは「右部」と呼ばれる。東扶余の帯素(テソ)王が高句麗三代目の大武神王に殺される(西紀二二年二月)と、帯素王の従弟(名前不詳)が遺民一万人を率いて帰属して来て、「絡氏」の名を与えられ、「涓奴部」に配されたとの記録がある。現在の富尓江流域にあり、五部族の中ではもっとも南に位置する。ただし、もともと「涓奴部」が王を出していたとの支那側の記録からすると、東扶余との関係も推測され、扶余遺民が配置されたのも、そうした同族関係によるのではないかと思われる。
 「絶奴部」(チョルノブ)……朝鮮史料で「桓那」と呼ばれる部と同じであろう。「提那部」あるいは「北部」の別称がある。その別称の通り五部族の中ではもっとも北に位置し、現在の哈達嶺以東の輝発河の流域にあって、代々高句麗王の王妃を出す部族であった。
 「順奴部」(スンノブ)……「東部」また「左部」とも称されたように、五部族中もっとも東に位置し、現在の北朝鮮慈江道、太白山の東南に当たる。ここは朱蒙によりもっとも早く征服された「荇人(ヘニン)国」のあった所で、その住民を高句麗が再編して「順奴部」としたのである。
 「灌奴部」(クァンノブ)……朝鮮史料に言う「貫那部」に当たる。別名を「南部」「前部」とも称す。日本海に面した朝鮮半島の付け根部に位置し、「涓奴部」の東北に当たる。ここに朱蒙時代の「黄龍国」を構成したモンゴル系の民族と同族の「蓋馬(ケマ)国」や「句茶国」の被征服民を配置したとされる。
 「桂婁部」(ケルブ)……卒本の中央地域を支配していた部族で、もっとも早く朱蒙を支持し、また第二夫人となった召西奴の出身部族でもある。朱蒙はもともと数人の部下とともに卒本に逃れてきた者で、自身の基盤部族を持たなかったので、桂婁部がその代わりを果たしたものと見える。そうした関係から「涓奴部」に代わって高句麗王を出す部族となったのであろう。ある意味では朱蒙の姓「高氏」よりももっと古い、誇りある名前であったと言える。だからこそ、卦婁真老は「高」とか「高麗」を名乗らず、あえて「卦婁」と名乗っていたのではないか。

 こう見て来ると、朝鮮の史料に言う「沸流部」(ピリュブ)が支那史料のどの部に相当するのか不明である。おそらく、沸流とは卒本近郊を流れていた河川の名、もしくは一地域の名前に因む部族名で、召西奴が産んだ第一子も沸流と命名されている。高句麗が卒本にあった時代の部族名称で、後には消滅したものと思われる。
 高句麗がこうした部族制を滅亡まで維持し続けたことは、その国家体制が領域支配を旨として男系継嗣による直系相続の領邦国家を目指しながらも、突厥のような部族制合議体制による、遊牧民的機能支配をついに脱し得なかったことを意味する。遊牧民的機能支配は優秀な首長に率いられた時は爆発的に発展するが、その男系継嗣が必ず同じように優秀であることは稀であり、直系による血縁相続が常に脅かされる宿命にあることは否めない。高句麗はその気候風土の環境から「半農半牧」の生業を余儀なくされたが、国家体制もまた「半農半牧」の軋轢からついに逃れられなかったと言えよう。
●卦婁部は高句麗の建国のみならず、百済の建国にも多大なる影響を及ぼしている。朱蒙が扶余時代に結婚した礼少椰の産んだ瑠璃が卒本に訪ねてくると、朱蒙の後継者として瑠璃を皇太子にするか、それとも召西奴の産んだ兄の沸流もしくは弟の温祚(オンジュ)を皇太子にするかをめぐり、「涓奴部」は瑠璃を推し、「絶奴部」と「順奴部」とが沸流を推し、温祚を「卦婁部」が推して、五部族が大きく割れた。
 沸流と温祚の母である召西奴は建国間もない高句麗の基盤が揺れることを憂い、二人の息子とともに自ら身を引くことを決意する。そして、沸流と温祚を連れて海を渡って南に向かった。
 召西奴親子に従ったのは烏干や馬黎など一〇人ばかりの臣下に過ぎなかったが、これを知った多くの農民たちが普段から二人の王子を慕っていたので自らついて行くことを決意した。
 ここで、「海を渡って」とあるのに注目したい。すでに述べたように卒本扶余も高句麗も半農半牧の内陸国家であったから、海での操船には長けていなかったはずである。当然彼らを船に乗せてやった人々がなくてはならない。黒潮の民との出会いと協力があったに違いないのである。
 河南の地に来たとき、臣下たちが、「この地こそ最も都にするにふさわしい土地です」と薦めたので温祚はここに都を造ることにした。沸流は聞き入れないで、彌鄒忽(仁川)に行きそこを都と定めた。
 温祚ははじめ国の名前を「十済」と唱えたが、農民が増えると「百済」に替え、高句麗と同じく扶余から来たことから姓を「扶余」と称した。
 召西奴は遠く朱蒙の死を聞くと、「東明聖王」の祠堂を百済の地に建てたという。
 こうして召西奴は高句麗と「十済」(後の「百済」)の建国に大きく関わっているのである。そして、召西奴は卦婁真老と同じく、卒本五部族の中心であった「卦婁部」の出身で、しかもその君長の娘だった。