みょうがの旅    索引 

                      

  須々岐水神社と片葉薄伝承 
       (世界戦略情報「みち」平成27年(2675)2月15日第420号) 

●延暦一八年(七九九)に賜姓改名を奏請して「須々岐」の姓を勅許された卦婁真老(けるのまおい)に関係深い神社が長野県松本市にある。須々岐水神社である。ただし、こう書いて「すすきがわじんじゃ」という特殊な訓み方をするので、注意を要する。
 松本城から東に延びる県道六七号線を美ヶ原方面へ三キロばかり進むと、三叉路の「兎川寺(とせんじ)」交差点がある。その三〇〇メートルばかり先の「松本市山辺(やまべ)児童センター」を過ぎた辺りで右折して二〇〇メートルほどで、左手に須々岐水神社が鎮座している。住所は松本市里山辺薄(すすき)町二七三七番地である。交差点の名前にもなっている真言宗智山派の兎川寺は聖徳太子開基と称し、かつては須々岐水神社の別当寺であった。
 須々岐水神社の南に松本市立山辺小学校があって、そのさらに南に薄川(すすきがわ)が流れている。この薄川の川岸に小さな祠があり、「薄宮古宮」(すすきのみやふるみや)と称するが、これが元々の須々岐水神社であると言われている。
 兎川寺交差点から真っ直ぐ南に薄川に向かう道が県道二九七号線であるが、兎川寺交差点と薄川とのちょうど中間の西側奥に、朝鮮式の積石塚で有名な「針塚古墳」がある。
 美ヶ原高原の渓谷に発する薄川は山辺地区を流れた後に松本駅の南で田川に合流し、田川は奈良井川と一緒になるが、奈良井川が梓川に合流すると犀川となって善光寺平で千曲川と合流、千曲川はやがて信濃川と名を変えて越後平野を貫流して日本海へと注ぐのである。
 卒本扶余(チョルボンプヨ)を旧貫とする卦婁真老たち高句麗系渡来民の祖先は日本海を渡り、いま述べたような信濃から日本海へと注ぐ水の流れを逆に辿って美ヶ原高原の西麓、薄川の河岸平野にやって来たに違いない。賜姓改名を願う請願の文章に、

 我々の祖先は、高句麗人であります。推古天皇・舒明天皇の時代(五九三~六四一)に入国帰化しました。

とあるから、祖先がこの地にやって来たのは卦婁真老の時代を遡ること二〇〇年も前の遙かな昔であったのだ。
 しかし、彼らの渡来は、自ら述べるように推古・舒明天皇の時代に初めて行なわれたわけではないことも忘れてはならない。旧石器時代から縄文時代を通じて、大陸・半島と日本列島とは陸橋と内海を媒介として深く繋がっていた。われわれが考えるような「国境」という概念のない時代には、彼我相互の交流はそれぞれの事情から相当頻繁にあったと考えられる。
 まして、小島一憲氏が洞察したように、日本列島には少なくとも縄文時代中期には列島全域をカバーする「港市交易文化圏」が成立しており、各地に特産・名産品を生産する工房(工場)とそれを遠隔地まで供給する配送網も発達していたことを考えれば、その縄文港市交易文化圏が大陸・半島まで及んでいなかったとは考えにくい。後に港市国家として栄えることになる伽耶諸国の発祥を、縄文港市交易圏の半島拠点だった点に求めても強ち不自然とはいえまい。
 須々岐水神社で毎年五月五日に行なわれる「お船(ふね)祭」は「田植えの始まりを告げ、秋の豊作を祈願する」伝統行事だとされるが、高さ五メートル、幅二・八メートル、長さ四・四メートルもある巨大な山車(だし)に幕を張り巡らせてわざわざ船の形に仕立て、九つある町会ごとに一台を出すという壮大な祭である。その「お船」が登場するのは江戸時代の享保年間からだというが、あえて山車を船のように仕立てるのは、須々岐水神社の氏子の祖先が遠い遠い昔に、遙々海を渡って当地に船で渡来したことを記念するためではないか、と想像を逞しくさせるのである。
●さて、日本が誇るべき大旅行記作家の菅江真澄が今から三三〇年ほど前に、この須々岐水神社を訪れたときの文章が『久米路の橋』の中にある。天明四年(一七八四)七月三日のことである。

 三日夜(よる)明けなんとしける頃、手洗い、近き境に御坐(おは)しける薄大明神に詣でんとて、朝明けの道を行き行きて、その里になりて神籬(ひもろぎ)を奉れば、御社(みやしろ)の左に軒と等しう高き、はたススキ(旗薄)を数多(あまた)植えたりけるを、
「あない見たまえ、この芒は(すすき)もろつまの須須支とて、ことススキとは変われり」
など教えたり、うべと、広前(ひろまへ)へ近う寄りて幣(ぬさ)奉るとて、
  幣(ぬさ)とれば 薄の宮の ほのぼのと あけの玉籬(たまがき) 風の涼しさ
  奉る 薄の宮の 神垣に 囲う尾花が 袖の白木綿(しらゆふ)

 菅江真澄のこの報告によれば、薄大明神(須々岐水神社)では「もろつまの須須岐」と称し「はたススキ」を拝殿の左に数多植えていた、というのである。この普通の薄とは異なる「もろつまの須須岐」とは、いったい何なのであろうか。
 この薄こそ須々岐水神社の御神体であるとの記述が松本藩の公式記録である『信府統記』(一七二四年成立)所収「松本領諸社記」中の「薄宮大明神」の項にある。

 当社は此の郷未だ開けざる已前此の地より辰巳に当たりて、三里余り有る山の奥に跡を垂れましますにより、今其の所を号して大明神平と云えり、然して後、此の地に降臨の初め薄の葉に召され、薄川の流れにつきて今の薄畑という所に至り給いて、後当社に移り給うと云云。ご神体は素戔嗚尊なり、古えは相殿も祀られたるか、其の伝を失う故に今は無し。本殿の巳午の方に諏訪明神を祀られる社の跡あり。社地の傍らに片葉の薄あり、則ち是を神体と云い伝う。一社の伝記悉く忘失して、右家伝の外には云い伝わる事なし。
  出雲路や八雲八重垣たちけして そのうつ薄いまはほや野に
是薄大明神の御詠歌なりとかや。

 『信符統記』に録する江戸時代中期の神社社伝に拠れば、須々岐水神社の神は元は現在地より南東方向へ三里余り(一〇キロ)の山中に垂迹したという。薄大明神の垂迹の地であるから、そこを「大明神平」と称した。大明神平に垂迹した神は片葉の薄の葉に乗って薄川を下り、「薄畑」の地に到着した。そこにいま「薄宮古宮」がある。
 その「案内板」に曰く。

 薄宮古宮(すすきのみやふるみや)
 薄宮須々岐水神社は里宮・古宮・奥社の三社を以て構成されています。
 此の地は古代神を招き稲作の豊穣を祈願した旧(もと)の社地と伝えられるとともに、須々岐水神・須々岐氏・薄川・薄町などの神名地名語源地とも云われ、六世紀頃の築造とされる古宮古墳からは直刀・馬具などが出土しています。
 また、この地は往古奥社の在る大明神平より薄川を舟下りし建御名方命とともに山辺の地を拓いたとされる素戔嗚命の上陸した地とも伝えられています。

 大明神平に垂迹し薄川を下って薄畑の地に鎮まった神は建御名方命だという説である。その神が素戔嗚命とともに山部の地を開拓したという。いずれも諏訪系=出雲系の主神で、河川名と地名の他には、須々岐の姓を賜わったという卦婁真老ら渡来民の痕跡はない。
 『信符統記』では薄の葉に乗って薄川を流れ下った神を素戔嗚命としていたが、「一社の伝記悉く亡失して」しまったので、正確な古伝は残っていないのだろう。
●だが、所伝の多くを失いながらも、神が薄川を下るときに薄の葉に乗っていたこと、そしてその薄が片葉だったという、もっとも大切なことだけは、連綿として伝えられている。
 時代の変容をさまざまに受けながら伝承される野史稗史の類の中にこそ歴史の真実が隠されていると思い定めて久しいが、須々岐水神社の「片葉の薄」の伝承の中にも、われわれが亡失してしまった貴重な記憶の痕跡がかすかに保存されているのである。
 それは詩人福士幸次郎が本業を抛ってまで没頭傾注した縄文研究の金字塔『原日本考』(一九四二年刊)以来、心ある少数の先達によって受け継がれ、闡明(せんめい)の試みが続けられてきたのだが、神宮皇學館大學出身、大嘗祭の研究で高い評価を受ける神道学者真弓常忠氏(一九二三~)が今からほぼ三〇年前に上梓された名著『古代の鉄と神々』(学生社、一九八五年刊)によって画期的な飛躍を遂げた「縄文製鉄」の痕跡である。
 本誌みちに連載中の稲村公望執筆の「黒潮文明論」もついに縄文製鉄の原料である「高師小僧」(たかしこぞう)と「鬼板」(おにいた)に逢着して愈々佳境へと突入しているが、真弓氏によれば、鉄を意味する古語は以下の五つの語群に分かれるという。

①テツ、タタラ、タタール、韃靼
②サヒ、サビ、サム、ソホ、ソブ
③サナ、サヌ、サニ、シノ、シナ
④ニフ、ニブ、ニビ、ネウ
⑤ヒシ、ヘシ、ベシ、ペシ

 真弓氏が指摘した通り、シノ地名とシナ地名に充ち満ちている信濃の国は、『梁塵秘抄』も「南宮の本山は信濃国とぞ承る」と認めているように実は「縄文製鉄」の一大拠点だったのだ。それが片葉の薄によって表象されるのはなぜか? それは次号にて。