みょうがの旅    索引 

                      

 南宮の本山は信濃国とぞ承る 
      (世界戦略情報「みち」平成27年(2675)3月1日第421号) 

●前稿の末尾に『梁塵秘抄』を引いて「南宮の本山は信濃国とぞ承る」との記述に注目したのだが、言うまでもなく「南宮」とは南宮山の麓に鎮座する美濃国一の宮の南宮神社のことで、御祭神は延喜式神名帳にこの神社の名前そのものを「美濃国不破郡 仲山金山彦神社」と称しているように、金山彦命である。
 中山神社(仲山神社とも表記する)はこの美濃一の宮のみならず、美作一の宮の中山神社(これが本来の吉備中山で現在備前備中境界の鯉山を吉備中山とするのは後世の付会である)や三重県一志郡美杉村(現三重県津市美杉町)下之川にある仲山神社も同じく製鉄神を祀る。なかでも、美濃一の宮の南宮神社は古来より全国の鉱山・金属業の総本宮として尊崇されてきた。
 『梁塵秘抄』の歌意は「南宮神社は今でこそ全国金属関連業従事者挙げての崇敬を受けているが、元を正せばその本山と言うべき神社は信濃国にある」というところだろう。
 後白河法皇が夜な夜な巷間に出歩き、あるいは宮中に召しなどして歌の上手の遊女白拍子などから時の流行り歌を聞き採り、それを自ら編纂収録したのが『梁塵秘抄』と言われている。いわば平安末期の流行歌集(今様歌謡集)である。
●あるとき、『梁塵秘抄』の一節に、

一品聖霊吉備津宮(いつぽんしようりようきびつぐう)、新宮(しんぐう)本宮(ほんぐう)内(うち)の宮(みや)、隼人崎(はやとざき)、北や南の神客人(かみまろうど)、艮御崎(うしとらみさき)は恐ろしや

とあるのを知って、わが産土の武宮神社(たけのみやじんじや)の本殿の裏にひっそりと「艮宮」(うしとらぐう)なる小さな石祠のあることも思い合わせ、急に思い立って吉備地方における「艮神社」「艮大明神」など「艮」さまを祀る神社や神祠を調べたことがある。
 ちょっと調べただけでも、それは実に広汎に分布しているのである。摂社や末社、あるいはわが産土の武宮神社のように、神社境内の一隅にひっそりと祀られる小祠や石祠までも含めると、どれほどの数になるか想像を絶する。「艮」さまとは、吉備津彦命に退治された温羅(うら)のことだと地元では信じられているが、温羅は百済の王子で吉備冠者(きびかじや)とも言われ、その弟王丹(おうたん)とともに吉備津神社本殿外陣の東北の隅、すなわち艮=丑寅の位置に祀られるとの伝承もある。
 果たして温羅がいつの時代にも常に霊異灼(あらた)かな「ミサキ神」=怨霊神として恐れられていたかどうかは分からないが、吉備地方にはまた「御崎神社」が夥しくあることは事実である。ただし、こう書いて地元では「ミサキ」とは呼ばず「オンザキ」と呼ぶのである。
●これを以てしても肝に銘ずべきは、『梁塵秘抄』の片言双句を軽んずべからずということだ。その文言にはわが国信仰史の奥深い時代相が紛れもなく反映されているからである。されば、『梁塵秘抄』に「南宮の本山は信濃国とぞ承る」とあるからには、その本山とは何かを真剣に考えてみなければなるまい。
 実は、この詞句に続き

さぞ申す、美濃国には中の宮、伊賀国には稚(をさな)き児(ちご)の宮

とあるのだが、美濃国の中の宮が南宮大社を、稚き児の宮が伊賀国の一の宮の敢国(あへくに)神社を、そして信濃国にある本山とは信濃国一の宮、すなわち建御名方神(たけみなかたのかみ)を祀る諏訪大社を指す、と一般に解釈されている。
 ここで南宮大社や敢国神社の詳細な御神徳に立ち入ることはしないが、『梁塵秘抄』がここに列挙したのは、いずれも製鉄・精錬・鍛冶の神の代表としてである。そして、こうした製鉄の神々の中で南宮神社が総本宮と崇められ皆々の信仰を集めているけれど、「ちょっと待て、もっとも古く由緒正しい神は建御名方神であり、諏訪大社である」というのが、『梁塵秘抄』の詞句が主張するところなのである。
 つまり、政体の担い手が摂関家から武家へと移行する社会大変動の時代の最中、治承年間(一一八〇年ころ)にあっても、信濃が一大製鉄王国だった縄文時代の記憶が『梁塵秘抄』の今様の中に残っていたのである。口碑・伝説を侮るべからざる所以がここにある。
●ただ、逆に考えれば、今様があえて「南宮の本山は信濃国」とわざわざ言挙げしたのは、世の大方の人々の記憶から諏訪大社が製鉄神だったということがほとんど忘れ去られていたからに外ならない。だから、神降ろしの巫女でもあった白拍子たちがつい賢しらを発揮して、
「南宮さんとか敢国さんとか大騒ぎしてお参りしてるけど、本当はお諏訪さまにお参りしなきゃーいけないんじゃないの」
と世の軽薄さを嘆いてみせたのである。
 だが、諏訪大社が製鉄の神であったことが忘れ去られたのも無理はない。本号「黒潮文明論」が指摘しているように、建御名方神は諏訪地方の本来の葦刈製鉄の神であった洩矢神(もりやのかみ)を服属させて製鉄の神となったのたが、その後製鉄法が大変革を遂げたからである。
 それでも、建御名方の製鉄神としての令名が轟いたのは、諏訪湖の周辺を始めとする信濃の河川沼沢に自生する葦の根元に纏わり付く褐鉄鉱の蝟集状態が余所の地方に比べて格段に豊かであったからだ。まさに「鈴なり」のように、ぷくぷくと膨らんだ褐鉄鉱が葦の根元に付着したのである。
 おそらく、大方の人は葦の根元に製鉄の材料が付着するなどと聞くと、信じられないような思いをすることだろう。「葦刈製鉄」の発見者である真弓常忠氏は名著『日本古代祭祀と鉄』(昭和五八年一二月、学生社)の中で、鉄が葦の根元に付着する様を記述している。同書「第二篇祭祀と古代鉄文化」の「第一章みずず攷」に収められた文章である。

 この弥生時代の製鉄において、原料となったのが褐鉄鉱の団塊たる<スズ>にほかならない。沼沢や湿原に生える薦や葦・茅の根には、沈殿した水酸化鉄が、鉄バクテリアの自己増殖によって固い外殻を形成し、褐鉄鉱の団塊となったものは、前記の如く、破砕して夾雑物をとり除けば、そのまま露天タタラで精錬することができたのである。<スズ>こそは弥生時代の製鉄の貴重な原料であった。……
 沼沢・湿原に水酸化鉄が堆積し、鉄バクテリアによって、褐鉄鉱の団塊たる<スス>ができるには、通常十数年を要するが、火山活動の状況によっては、もっと短期間で生成されることもあったに違いない。(同書一二〇~一二一頁)

 褐鉄鉱(FeO)が「鈴なり」になる葦、それは貴重この上なく、各地で芦刈製鉄に従事する者たちにとって羨望の的となったのだった。
 こうして、信濃の枕詞が生まれた。「美鈴刈る信濃」とは褐鉄鉱が鈴なりに付着した葦を易々と刈り取ることのできる信濃の民への羨望の言葉なのである。それはまた、葦の根元に付着した製鉄用の褐鉄鉱を刈り集める作業が神事にも等しい神聖なる作業であるとともに、如何に重労働であったかをわれわれに教えてくれる。
●さて、ここでようやく須々岐水(すすきがわ)神社の神がなにゆえ片葉の薄に乗って薄川を流れ下ってきたのかを考えることができる。それは端的に、須々岐水神社に祀られる神が葦刈製鉄の神であったことを物語る民話的表現なのだ。
 「薄」に乗ってきたのに、なぜ「葦刈製鉄」なのか、という不審の眼差しを浴びせられそうな気がするが、いとも答は簡単だ。葦でも、薄でも、何でも好いのだ。要は、河川や沼沢地の水辺に生える植物で、その根元に褐鉄鉱が付着してくれれば、植物の種類は問わないのであって、どんな植物でも構わないのである。
 長沢利明という方が「西郊民族談話会」のサイトに連載で「民俗学の散歩道」を書いているが、その第四回目に、「片葉の葦」(http://www11.ocn.ne.jp/~oinari/sub7-04.html)と題して「片葉の葦」の伝説を丹念に拾ってくれているが、柳田國男が須々岐水神社の「片葉の薄」についても触れた「片葉蘆考」を批判して、次のように言っている。

 ……そこで特に注目しておられたのは、葦よりもススキだったのであって、……確かに信州の諏訪信仰にあっては、ススキというものが特別な意味を持っていたのであって、それは御柱習俗ともセットとなり、甲州の祭礼習俗などにも多大な影響を与えている。
 ……とりあえずここではススキよりも葦であろう。柳田氏の解釈には少々無理があり、ススキと葦とをあまり混同しない方がよいというのが、私の考えである。

長沢氏には甚だ失礼ながら、その顰みに倣って言わせてもらえば、

 葦もススキも、笹までも一緒くたにして大いに混同しなければならないというのが、私の考えである。

と申し上げたいところである。
●「片葉の薄」を説明すると言いながら、葦でも好いと言った舌の根も乾かないうちに、さらに「笹」でも好いのだと言うのには訳がある。
 長沢氏は「片葉の葦」の伝承の分布について「決して全国に万遍なく均一にそれが見られるわけではなく、……その中心は、いうまでもなく関東地方にあり、中部地方がそれに続く。近畿・東北地方になるとまばらになり、中国・四国・九州地方や北海道地方にはほとんど、あるいはまったく見られない」と言っているが、「片葉の葦」の伝承は確かにそうかも知れない。
 だが、「片葉の笹」の伝承なら因幡伯耆地方に六社(島根県の佐々布久神社を含めると七社)ある楽楽福(ささふく)神社に伝わっていて、柳田國男も触れていたように思う。楽楽福神社に伝わる孝霊天皇の鬼退治の話はそれこそ笹のオンパレードと言ってよい。
 先号の真弓常忠氏が挙げた鉄を意味する古語の五つの語群に付け加えて、第六番目に次の語群を私は挙げたい。

⑥ササ、ツァツァ、スス、ツツ

 こう考えなければ、卦婁真老(けるのまおい)になにゆえ「ススキ」の姓が勅許され、彼らの祀る神が薄の片葉に乗って薄川を流れ下るのかが分からない。すなわち、須々岐(すすき)とは、神聖なるススの成る木(草でもある)を刈り取ることを許された、すなわち信濃の枕詞ともなっている「美鈴刈る」神事に連なることを許された名誉ある一族の名前なのである。渡来民の子孫とはいえ、高句麗系の卦婁真老たちはこれほど大事にされたのであった。
 最後に、なぜ「片葉」でなければならないのか、私見を述べる。葦刈製鉄用の葦(笹、薄)を刈り取る作業は神聖な神事そのものでもあったが、同時に肉体的故障を屢々余儀なくさせるほどの重労働であった。だからこそ、信仰心の厚い心優しい日本人は重労働によって片眼や片足となった人々に尊敬の念を抱き、あからさまな蔑称を投げつけて「片輪」と呼ぶようなことはせず、植物に仮託して、その奇形「片葉」によって「片輪」を暗示させ、製鉄従事者の不具を間接的に表象する言葉遣いを選んだのである。また、ことさらに片葉の薄や葦を特別のものと考え、、神の依代、いやむしろ神そのものとさえ見なして、大切にしてきたのである。