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  徳川家康を生んだ本当の力
      (世界戦略情報「みち」平成10年(2658)10月1日第60号) 

●徳川家康はニセモノだった、いや影武者だった、いやいや実は二人いた、などという説がある。それをもとに、南條範夫「願人坊主家康」(昭和三三年)や同『三百年のベール』(昭和三七年)、矢切止夫『徳川家康は二人だった』(昭和五一年)、隆慶一郎『影武者家康』(昭和六四年)が書かれ、漫画家白土三平の代表作『カムイ伝』(昭和四四年~)のテーマともなり、最近はテレビドラマまで作られる。徳川三〇〇年の基礎を築いた家康がブレインとなった南禅寺崇伝や喜多院天海とともに、一筋縄ではいかぬ奥の深い人物だとうすうす感じてはいたが、家康については突きつめて調べたことも考えたこともなかった。
●ところがこのほど、こうした異説家康の種本となったのが村岡素一郎『史疑 徳川家康事績』(明治三五年、民友社刊)であることを知った。青山京古から教えられて、村岡素一郎の孫に当たる榛葉英治著『史疑徳川家康』を読んだからである。村上素一郎の原著が難解な漢語の頻出する文語体であるところから、それに解釈・解説を交え現代語訳したものだ。
 それによると、家康が幼時に今川家の人質に出されて苦労したという通説は、史実を巧妙に織りこんだ虚構である。もともと家康の生まれは、三河岡崎城主松平元康の嫡男竹千代などではなく、竹千代が人質に囚われていた駿府の町のササラ部落に住むササラ者だった。ササラ者とは簓を摺って田楽を踊り、謡物や浄瑠璃、説教節や歌祭文などを唱えては銭を乞い歩く賤民であった。永禄三年(一五六〇)に二歳の竹千代君が人質となっていた今川氏の館から誘拐された。誘拐の首謀者こそ後の家康で、当時は世良田次郎三郎元信と名乗っていた。父は下野国新田郷から駿府に流れてきた江田松本坊と称する願人坊主=加持祈祷師で母はササラ部落に住む於大という娘。父は家康(幼名国松)の誕生後まもなくいずこかへ流れていったので、家康は母方の祖母に育てられた。誘拐事件が起こると、その祖母源応尼はササラ部落近くの河原で斬首された。松平の嫡男を手中にした若き家康は、織田信長と交渉して竹千代を信長の人質に入れ、今川対織田の対立のドサクサにまぎれて、松平信康に成り替わり、甲斐の武田に通じようとしたとの廉で信康の正室築山殿と竹千代を殺し、天下を取ってからは竹千代の幼時の人質時代をもってみずからの出自としたという。
●この説がどこまで整合性をもつのか時間をかけてじっくり検証してみたいと思っているが、父の出自が下野国新田郷とされている点は見逃せない。みずからも新田氏三流のひとつ世良田姓を名乗ったほかにも、駿河のササラ部落と新田郷の関係は深いように思われるからだ。
 いわゆる「語り物」には時代によって田楽や『謡曲』に謡われる詞章から、『神道集』に残された神社祭神の本地垂迹的な縁起を語るもの、それから段々に生きた生身の人間を主人公にして苦難を通した救済を語る説教節に一応の完成を見た。近世近代には小屋掛けの説教師や浪曲師によって承け継がれていったが、語り物発祥のときから連綿と語り伝え、説き広めたのは、家康異伝に登場するササラ者たちであった。柳田国男や築土鈴寛はたとえば比叡山東塔竹林院の里坊安居院を拠点とした唱道集団の作に帰せられる『神道集』に東国の拠点を想定し、これを上野国新田郡世良田の長楽寺に比定している。
●楠正成は観阿弥・世阿弥との繋がりから、こうした唱道集団との由縁の深いことが知られているが、正成をしてよく後醍醐帝の藩屏たらしめたものは、ある時代には簓摺り、願人坊主と呼ばれ、別の時代には草の者、河原者と呼ばれて蔑視された賤民非人集団であった。極論すれば、そのネットワークの力無くしては、楠正成の機略もなく、徳川三〇〇年の太平もなかったのである。また、上代の歌謡の大半や平安の女流文学を除けば、日本文化の精髄を創造し、伝えた者たちもこのネットワークに属する者たちだったのである。