みょうがの旅    索引 

                      

  米国対日外交草創とシーボルト ①
        (世界戦略情報「みち」平成10年(2658)10月15日第61号) 

●嘉永六年六月三日(一八五三年七月八日)、マシュー・ガルブレイス・ペリー提督率いる米国東インド艦隊の黒船四艘が浦賀沖に来航した。日米外交の幕開けである。ただし米国が遣日使節を送ってきたのは、これが初めてではない。
 一六年前の天保七年に米国オリファント商会の商船モリソン号が民間使節として同じく浦賀に来航したことがある。このときは文政八年(一八二五)の「異国船打払令」にもとづいて沿岸の砲台から砲撃して追い払った。当時の商船は大砲を備え武装しているのが普通でモリソン号も例に漏れなかったが、ある意図があって、広東を出航するとき、すべて大砲を取り外し、丸腰でやってきた。
 このモリソン号事件に端を発して、外国船を撃ち損じた反省から砲術向上が痛感され、それがやがて蛮社の獄(一八三九年)を引き起こすことになる。その直後、支那ではアヘン戦争が勃発、清朝が敗北した。英国の世界的優位をいちはやく知った幕閣は、いずれ日本にも黒船の及ぶことを予期し、その対応に策を練って、天保一三年(一八四二年)七月いわゆる「天保薪水令」を出した。当時の限られた情報によっても、モリソン号が非武装商船で、日本人漂流民の送還を目的のひとつにしていたことがわかった。そこで、たとえ名目にせよ日本人送還を目的にわざわざ武装解除して来航する外国船をむやみに打ち払うのは礼節にも悖(もと)る、との林大学頭述斎による本質論が出た。一方でモリソン号はあくまで英国船だと信じられており、ふたたび砲撃打ち払いによって戦端に及べば、彼我の軍事力を勘案してとても勝ち目はなく、支那の二の舞になるとの冷静論もあった。一般には、徳川祖法の鎖国を堅持して夷船を打ち払うべしとの強硬論が強かったが、幕閣はまず礼を尽くし後は敵の出方を待って外交交渉に及ぶ策を決めた。それは支那において約二年間のアヘン戦争ののちに南京条約が締結される前日のことであった。
 米国による第二回目の来航で、最初の公式遣日使節は、一八四六年七月二〇日に同じく浦賀に現われた。帆船コロンブス号に乗った米国東インド艦隊司令長官J・ビッドルである。幕府は今回は発砲せず薪水を供給し、米国大統領の国書を受け取った。
●長日の航海をものともせず、国書を持たせ公式使節を派遣するに当たって、米国が日本情報の拠りどころとしたのは、シーボルトの『日本』だった。鎖国日本との直接交渉がない以上、外交の基礎となる情報は間接情報に頼らざるをえない。実は日本に関する情報も、支那に関する情報と同じく、支那に伝道(?)にやってきていた宣教師が集めることを期待されていたが、鎖国政策によりみずから滞在を許されない以上、それは不可能だった。いきおい情報源は当時わずかながら唯一日本との交通を許されていたオランダが蒐集した情報ということになる。
 オランダ東インド会社に雇われたドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペル(滞日一六九〇~九二年、『日本誌』)や同じくドイツ人のシーボルト(滞日一八二三~二九年、『日本』)が、まとまった日本情報として利用された。
 とくにシーボルトの『日本』は、全二〇冊の分冊形式で一八三二年よりオランダのライデンで順次刊行され、最後の第二〇分冊の刊行は一八五二年、ペリーの来航に先立つことわずか一年前だった。部数六〇部といわれる。米国政府はペリーの前任者オーリックの遣日決定のさいの一八五一年、オランダから地図類を三万ドルで購入し、かつまたシーボルトの『日本』を五〇三ドルで購入している。
 さらに、モリソン号やペリーに通訳として随行したS・W・ウィリアムズら米国海外伝道監督委員会派遣の宣教師たちが支那の上海で刊行していた月刊誌「チャイニーズ・レポジトリー」の誌上でも、日本に関する最新情報として、『日本』の内容が詳しく紹介されていたのである。(つづく)