みょうがの旅    索引 

                      

  米国対日外交草創とシーボルト ②
        (世界戦略情報「みち」平成10年(2658)11月1日第62号) 

●今日「規制緩和」と「ビッグバン」とが、世界権力による世界金融一元化を推進するための国際基準=恫喝であるのと同じように、一九世紀のアジアにあっては、「通商交易か、さもなくば植民地か」という恫喝が西欧列強の「国際基準」であった。
 この国際基準を振り回して一時、地中海に覇を唱え交易を独占したのが、ヴェネツィア共和国である。十字軍はこの商人=海賊国家ヴェネツィアが先進のイスラム文明圏と有利な交易を進めるために、西欧の蒙昧な宗教的情熱を利用し動員した武力恫喝だった。
 一七世紀初頭に相次いで設立された東印度会社は、そのヴェネツィアの直系の子孫といってよい。もし「黄金の国ジパング」として西欧の欲望をかき立てていた日本が、戦国時代を経験した当時第一級の危機管理能力と軍備をもたず、切支丹伴天連の求めるままに布教を許し、また各国の東インド会社と交易を開いていたら、スペインやポルトガルあるいは英蘭によって印度や支那より先に植民地に分割されていたに相違あるまい。
●米国も出遅れていただけで、この時代の西欧列強の国際基準である「交易か植民地か」と無縁ではない。支那との阿片・苦力貿易にしてもすでに少数ながらラッセル商会などががっちり食い込んでいた。米国における東部エスタブリッシュメント=特権支配門閥の形成は、英国=世界権力主導の阿片・奴隷貿易による巨利の分け前に与ることで加速された。ただし英国との対抗意識から、国策に阿片禁輸を掲げた点は異なる。だが米墨戦争(一八四六~四八)の勝利によりカリフォルニアを領有して太平洋に達した米国は、黒船=外輪蒸気船の建造を急ピッチで進め、保有蒸気船総トン数ではやがて英国を抜いて世界一になろうとしていた。この気走軍艦の先進性に着目し率先して海軍に導入をはかった責任者こそ、メキシコ艦隊司令長官として気走軍艦を率い米墨戦争を勝利に導いたM・C・ペリーその人だった。
●こうして米国は一方で当時最新鋭の気走軍艦の建造を続々と進めながら、海難捕鯨船員の生命財産の保護という「人権政策」を大義名分にして、海軍主導の日本開国使節の派遣へと国論がまとまっていく。
 支那への参入に遅れをとり阿片禁輸を切り札とした米国は、早くから日本への一番乗りを狙っていた。その米国に対日平和開国方針を決定する情報を提供したのが、シーボルトの『日本』だった。
 当時支那にあって今日いう諜報活動にも従事した宣教師たちにより一八三二年に創刊された月刊誌『チャイニーズ・レポジトリー』は、一八三三年一一月号でオランダ資料にもとづく日本情報を取り上げている。シーボルトの『日本』の第一分冊がオランダのライデンで一八三二年刊行されるや、早くも翌々年の一八三四年八月号でその内容を要約・紹介した。「日本──その地理、起源、古代史および国民性」と題する三六ページの論文である。執筆者はペリーの通訳を務めたS・W・ウィリアムズの先輩にあたる宣教師E・C・ブリジマンだった。
 ブリジマンは次のように日本を高く評価していた。

 日本は原始時代以来、厖大な数の船舶を有し、中国人と同様に、日本人商人は近隣諸国を訪問(交易)し、その足跡ははるかベンガルにまでおよんでいた。その時すでに日本国は文明の高い段階に達しており、これは、おそらくキリスト教の平和的・禁欲的な活力の影響を受けずに達しうる(唯一の)高い段階といえるであろう。
(加藤祐三『黒船前後の世界』一九九四年、ちくま学芸文庫、三六四ページ)

 ブリジマンの評価はシーボルト『日本』の開巻劈頭の「日本は一五四三年、ポルトガル人によって偶然に発見された。その時、日本はすでに二二〇三年の歴史をもち、一〇六代にわたる、ほとんど断絶のない統治者の家系のもとで、一大強国になっていた」という記述に対応する。若い米国が「世界最古の非キリスト教文明の一大強国日本」に開国を迫ることになったのである。